「『もし、お前さえ良ければ、もっといてほしいのだが。実は占いで、わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていることが分かったのだ』とラバンは言い」 創世記30章27節

 ヤコブがラバンの下で14年を過ごす間に、二人の妻とその召使いに次々と子が授かりました(29章31節~30章24節)。レアには、女の子(ディナ:31節)を含む7人の子(ルベン、シメオン、レビ、ユダ:29章31節以下、イサカル、ゼブルン:30章14節以下)、レアの召使いジルパに2人(ガド、アシェル:9節以下)が与えられました。

 ヤコブが愛するラケルには1人(ヨセフ:22節以下)、ラケルの召使いビルハには2人(ダン、ナフタリ:3節以下)、子が与えられました。生まれた順に並べると、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イサカル、ゼブルン、ディナ(女児)、ヨセフとなります。

 子を産むことでヤコブの寵愛を引き留めようと励んだ結果のように描かれていますが、その結果、たった一人でハランまで来たヤコブは、今や17人の大家族です。「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていく」(28章14節)と約束された神の言葉が、ここに実現し始めているのです。

 ところで、妻を得るために14年働いたヤコブは、妻子と共に故郷へ帰らせてくれるようにと、義父であり叔父でもあるラバンに願い出ます(25節以下)。

 ただ、ヤコブに妻子を連れて行かせることは、現代の私たちが考えるほど単純なことではありません。ヘブライ人の奴隷について、出エジプト記21章4節に「もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子どもは主人に属し、彼は独身で去らねばならない」という規定があります。

 ヤコブは奴隷ではなく、ラバンの親族ではありますが、パダン・アラムにあっては、自分の土地を持たない寄留者です。だから、この後、ラバンのもとを逃げ出したヤコブを追いかけてきたラバンが、「この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ」(31章43節)というのです。

 ラバンには、ヤコブを手放す気はありません。むしろ、ずっと一緒にいて欲しいと考えています。冒頭の言葉(27節)でラバンがヤコブに「もし、お前さえよければ、もっといてほしいのだが。わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていると分かった」と語っているとおりです。

 それまでとは比較にならないほどに家畜が増え、それは、ヤコブに主の祝福がラバンに与えられているからだと分かったのです。それはちょうど、独りでやって来たヤコブが大家族になっているところにも示されていました。

 ヤコブは、ラバンによって裕福になれたのだから、自分も家庭を持つことができるようにしてほしいと言い(30節)、妻子と共に郷里に帰ることを要求します。

 ヤコブを引き留めたいラバンは「お前の臨む報酬をはっきり言いなさい」(28節)と言い、「何をお前に支払えばよいのか」(31節)と尋ねます。

 ところが、不思議なのは、ラバンに答えるヤコブの言葉です。「何もくださるには及びません。ただこういう条件なら、もう一度あなたの群れを飼い、世話をいたしましょう」(31節)と言い、そして、ラバンの群れの中でぶちとまだらの羊、黒みがかった羊、まだらとぶちの山羊を自分の報酬として欲しいと願います(32,33節)。

 ヤコブはここで、ラバンの群れのぶちとまだら、黒みがかった羊、ぶちとまだらの山羊を報酬として受け取れば、帰郷せず、ラバンのもとで家畜の世話を続けると告げているのです。全く破格の条件に、ラバンは「よろしい。お前の言うとおりにしよう」(34節)と請合います。

 そこには、ヤコブがこんなバカだとは思わなかった、これでまた、ヤコブをただ働きさせられるという、少々軽蔑するような思いがこもっているかも知れません。その上、ラバンはその日のうちに、縞やまだらの雄山羊、ぶちやまだらの雌山羊全部、黒みがかった羊を全部取り出して息子たちの手に渡し(35節)、三日かかるほどのところに連れて行かせます(36節)。

 つまり、ヤコブには何の報酬もやらずに、ラバンの残りの羊と山羊、即ちまだらやぶちなどのない白い羊や黒みがかった山羊をヤコブの手に託し、ずっと働かせようとしたわけです。

 ところで、ラバンとその家族がいなくなると、ヤコブはポプラとアーモンド、プラタナスの木の若枝の皮をはいで縞模様を作り(37節)、それを家畜の水飲み場の水槽の中に置きました(38節)。そして、その水飲み場で枝を見ながら交尾させたのです。

 それは、人間や動物の母親が妊娠期間中に見たものが胎児に伝わり、決定的な影響を与えるという、ある種の胎教効果を期待しての工夫でした。そして、それが功を奏して、家畜の群れはみな縞やぶち、まだらの子を産んだのです(39節)。

 さらに、ヤコブは羊の群れを丈夫なものと弱いものに分け、丈夫な羊は皮をはいだ枝の前で交尾させ(41節)、弱い羊の時は枝を置かないようにしました(42節)。そのため、数多くの丈夫な羊はみなヤコブのものとなり、弱いものはラバンのものとなりました。

 ここでラバンは、ヤコブに神の祝福が伴っていることを知りながら、祝福をお与えになる神に目を向けるのでなく、祝福として与えられた群れをヤコブから奪うことに躍起となっていました。

 神はアブラハムに、「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う」(12章3節)と言われました。その祝福をヤコブは、イサクを通じて受け継ぎました。イサクがヤコブを祝福して「お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者を祝福されるように」(27章29節)と言っています。

 もしもラバンが、自分も神の祝福に与ることが出来るように祈ってほしいと求めていれば、そして、自分でも、恵みの主を信じ、導きを祈り求めるならば、全く違った結果を生んだことでしょう。

 コロサイ書3章5節に「貪欲は偶像礼拝にほかならない」という言葉があります。人は、自分の欲を満たす神を求めて偶像を造るということでしょう。そしてそれは、神に喜ばれることはありません。一方、ヤコブがしていることも、褒められるようなこととは思われません。子山羊一匹すらくれようとしないケチな伯父さんに対して、巧妙に出し抜こうとしているからです。

 それでも、確かに彼は神に祝福されているようで、無一物でラバンのもとを去るべき運命かのように思われたヤコブが、多くの家畜を自分のものとしています。私たちが不真実でも、神は常に真実であられ、ベテルの約束(28章13~15節)が果たされるまで、「決して見捨てない」(15節)との宣言を実行しておられるのです。

 「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)と語られた主を仰ぎ、神との豊かな交わりに与らせていただきましょう。

 主よ、体の灯火は目である。目が澄んでいれば、全身が明るいという御言葉があります。いつも御言葉に耳を傾け、心の目を主に向けさせてください。そして、私たちの全身を御言葉の光で照らしてください。そうして、天に宝を積むことが出来ますように。 アーメン