「ヤコブは言った。『まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。』」 創世記25章31節

 1節に、アブラハムが再婚したと記されています。相手の名はケトラといい、彼女は、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアを産みました。「♪アブラハムには7人の子、一人はのっぽで後はちび、皆仲良く暮らしてる、さあ躍りましょう。右手、左手、右足、左足、頭、お尻、回って、おしまい♪」という歌があります。原作詞者、作曲者は不明です。

 アブラハムには、正妻サラとの間にイサク、側女ハガルとの間にイシュマエルがおり、そして、再婚した妻ケトラとの間に6人の子ですから、合計8人の息子を持っていることになります。また、背の高さについては、どこにも記述されていませんから、誰がのっぽで誰がちびなのか、検証は出来ません。

 そして、アブラハムは175年の生涯の幕を閉じます(7節)。そして、息子イサクとイシュマエルにより、妻サラと同じ、マクペラの洞穴に葬られました(9,10節)。

 イサクが生まれたのは、アブラハムが100歳の時であり(21章5節)、妻サラが127歳で息を引き取ったとき(23章1節)、アブラハムは137歳でした。その後、再婚して6人の子を持ったわけです。アブラハムが神の御言葉に従って生まれ故郷を後にした後、確かに神は、アブラハムを祝福されたのです。

 アブラハムの息子イサクが、アラム・ナハライムのナホルの町からリベカを迎え、妻としたのは(24章67節)、40歳の時でした(20節)。しかし、彼らには子が授かりませんでした(21節)。父アブラハムと同様です。

 そこで、イサクが祈り求めたところ、主が祈りを聞かれ、待望の子どもが与えられます。しかも、双子の赤ちゃんでした(22節以下)。26節に「リベカが二人を産んだとき、イサクは60歳であった」と記されています。つまり、イサクは、結婚して20年、子の授かるのを祈り待ち望んだわけです。

 イサクが祈リ、神が答えられたということは、命は神の賜物であるということです。また、祈りこそ、神を信頼し、御前に鎮まって約束の成就を待つことの出来る力です。私たちに力はなくとも、神にはその力があります。

 主イエスが、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ福音書11章25,26節)と言われました。

 また、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことができない」(同14章6節)と言われています。私たちの家族、親族に永遠の命が授けられるよう、信じて祈り続けましょう。

 リベカの胎内に双子が宿ったことが分かったとき、主に御心を尋ねたところ、主は23節で「二つの国民があなたに胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」とお答えになりました。つまり、神は生まれる前に弟を選ばれ、より重要な役割をお与えになっていたのです。

 27節に「二人の子どもは成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。兄エサウは長じて狩猟者となりました。「巧みな」というのは「ヤーダー」という言葉で、「知識を持っている」という意味です。

 弟ヤコブは「天幕の周りで働く野を常とした」というのですから、田畑を耕して生活するお百姓になったということでしょう。「穏やかな人」は「ターム」という言葉で、「完全な、汚れのない」という意味の形容詞です。その意味では「物静かな」という意味合いではなく、健康面、体力面で問題がない、また、道徳的で健全といった意味合いと考えられます。

 ただ、「ヤコブ」の名の由来となった「アーケーブ」という言葉は、「かかと」という意意味の名詞だけでなく、「だます、蹴飛ばす」という動詞でもあります。ヤコブの生涯には、欺し、欺されるということがついて回るのです。

 ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来ました(29節)。エサウは巧みな狩猟者でしたが、しかし、いつも獲物を獲得できるという保証はありません。野山を駆け回って獲物を追いますが、獲物が得られないということもあるわけです。空腹を抱え、疲労困憊して家に戻って来たときに、ヤコブが煮物をしていたのです。

 そこで、エサウがヤコブに「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ」(30節)と願います。

 エサウは、ヤコブが何を作っていたのか、その料理の名を知らなかったのかも知れません。だから、「その赤いもの」と呼んでいます。それが、彼の別名「エドム」の語源となったと説明しています。「赤いものをむさぼり食べる男」ということでしょうか。それは、嘲りを含んだ表現と言わざるを得ません。

 エサウの願いに対してヤコブは冒頭の言葉(31節)のとおり、「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」と言います。ここに、「長子の権利」と言われているのは、父親が亡くなったときに、他の兄弟の2倍の資産を受け取る権利のことです(申命記21章17節)。長子は、神に属するものとされ、特別な価値があると考えられていたのです。

 煮物を食べさせろという要求に対して、長子の権利を譲れというのは、釣り合わない無理難題のように思われます。到底、聞ける話ではありません。ここは、「馬鹿にするな」と怒って立ち上がるところでしょう。ところが、驚くべきことに、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」(32節)とエサウは答えるのです。

 それを聞いたヤコブが「では、今すぐ誓ってください」(33節)というと、エサウは誓いの言葉を口にし、長子の権利を譲ってしまいました。長子の権利を一杯の料理で売り渡したわけです。

 このときエサウは、飢えて死んでしまえば、長子の権利もへったくれもない、父の亡くなるときまで、この空腹を我慢し続けることなど出来ない、今のこの空腹を満たす料理の方が、長子の権利よりも大切だと考えたのです。目先のことで、大切な将来の保証を売り渡してしまうとは、なんと愚かなことでしょうか。

 ところで、ヤコブは、そんなに簡単に長子の権利が手に入ると考えてはいなかったと思います。兄が、この料理と長子の権利を交換すると本気で考えていたとは思えません。ただ、仮に、ここでこの料理を兄エサウに譲って、自分は食べないまま空腹でいることになっても、「長子の権利」を手にすれば、それは将来の保証となると考えたのです。

 ところで、父イサクが持っていた遺産とは、どれほどのものでしょうか。それは、アブラハムから受け継いだ「非常に多くの家畜や金銀」(13章2節)、そして、サラを葬るために購入した、ヘト人エフロン所有のヘブロンのマクペラの畑とそこの洞穴です(23章17節以下)。

 しかし、それだけではありません。イサクの父アブラハムは、「祝福の源」とされた人物です(12章2,3節)。アブラハムが「長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」ように(7節)、主なる神が共にいて、祝福を与えてくださるという、目には見えない財産、宝物がありました。その祝福をどうしても手に入れたいと、弟ヤコブは考えていたのです。

 このような父イサクの持つ財産、祝福の力に対する見解の相違が、二人の対応を分けました。

 私たちは、主イエスを信じる信仰によって神の子とされ、キリストと共同の相続人とされています(ローマ書8章17節)。この権利をあってもなくても同じなどと考えて、サタンに欺き取られてはなりません。また、既に恵みによって与えられているのに、精進、努力によって獲得すべきものと思い違いさせられてはなりません。主の恵みにより、命の光の内を歩ませていただきましょう。

 主よ、イサクが命のために祈り、ヤコブがイサクが持っていた神の祝福を求めたように、私たちも神の恵みを慕い求めます。それによって信仰に生きる者となるためです。パウロが、神の恵みによって今日のわたしがあると言い、わたしに与えられた恵みは無駄にならなかったと告げているように、私たちも動かされないようにしっかりたち、主の業に常に励む者としてください。 アーメン