「アブラハムは答えた。『この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。』」 創世記20章11節

 20章は、「神」が一般名詞の「エロヒーム」で語られる「E典」です。ここには、「ゲラル滞在」という小見出しがつけられています。この段落は、12章9~20節の「エジプト滞在」とよく似ています。12章は「J典」です。その意味では、E典の「ゲラル滞在」の記事の前に、J典と同様、「アブラムの召命と移住」(12章1~9節)の物語があったのでしょう。

 J典に編み込まれた組み込まれて、現在の場所に置かれた結果、ヘブロンにいたアブラハムが南のネゲブ地方に移り、そこから更に南西方向に移動して、「カデシュとシュルの間」、即ち、エジプトとの国境付近、ちょうどエジプトの川と呼ばれるワーディー、冬、雨が降ったときだけ流れる川のあたりに住んだとされます。

 そして、「ゲラルに滞在していたとき」(1節)と言われます。ゲラルは、ガザの南東約17㎞、ベエルシェバの北西約24㎞の地点にある、現在のテル・エシェリアと同定される町です。この町は、長い間ペリシテ人の支配下にありました。

 なぜ、アブラハムがエジプトとの国境付近に移り住んだのか、それから、どのようにしてゲラルに滞在するようになるのか、その理由など何も記されていませんが、19章に記されていた、ソドムの町に起こった恐るべき出来事から、少しでも距離をとろうとしてのことと、編集者は私たちに思わせようとしているのではないかと考えられます。

 ただ、アブラハムは、多くの家畜を飼っています。だから、ヘブロンから南へネゲブ、カデシュから西へシュルの道を進み、そこから北東へ上ってゲラル、そしてヘブロンに戻って来るという、餌場、水場を求めて移動しながら群れを養う、遊牧民のような生活をしていたのかもしれません。

 しかし、そのような遊牧民の生活は、およそ安定しているとは言い難いものです。特に、寄留者の立ち場は弱いものです。生活の安定を図るためには、生きていく上での様々な知恵、したたかさが必要になって来ます。

 12章のエジプト滞在と同様、ここゲラルでも、アブラハムは妻サラのことを妹と紹介します。その理由が冒頭の言葉(11節)に、アブラハムの言葉で「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです」と説明されています。

 他人の妻と姦淫することは、重罪です。アブラハムの妻サラを王宮に召し入れたゲラルの王アビメレクに神が夢で現れ、「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は、夫ある身だ」と言われたとき(3節)、自分の身の潔白を認めてくれるよう、アビメレクが4,5節で神に訴えていますが、それは、他人の女性を横取りしたということなら、死罪になるということを了解しているからです。

 そのために、姦淫ということでないようにするため、夫を殺して妻を自分のものにするという手法がとられることが少なからずあったと考えられます(12章12節参照)。アブラハムが「妻のゆえに殺されると思った」というのは、そのことです。そこで、殺されることを免れるために、妻を妹と偽り、それで、サラが王から召されると、彼はそのままアビメレクに差し出したわけです。

 王が女性を王宮に召し入れるのは、跡取りをもうけるためでしょう。およそ、90歳になろうとするサラに対して行われることとは考えがたいところです。もっとずっと若いときになされたという想定ではないかと思われますが、詳細は全くもって不明です。

 いずれにしても、もしも、サラがそのままゲラルの王アビメレクの側室、はたまた妻となるならば、17,18章で告げられていた、アブラハムとサラとの間に嫡子イサクが生まれるという神の約束は、反故になってしまいます。否、アブラハムが自らそれを拒否したかたちになってしまいます。

 この危機に、神が介入されました。上述のとおりアビメレクに夢で現れ、「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫ある身だ」と告げられました(3節)。それに対し、アビメレクは自分が無罪であることを主張します。

 4節で「正しい者でも殺されるのですか」というのは、アブラハムがソドムのために執り成すときに「正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」と尋ねた言葉を思い出します。それを、異邦人のアビメレクが、自らの潔白を認めてもらうために語っているのです。アビメレクは続けて、「わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」(5節)と言いました。

 ここで「やましい」というのは、「完全、無罪」を意味する「トーム」という言葉です。また、「不正な手段でもなく」は、「潔白な手」という言葉です。サラを召し入れた件について、自分は無罪、潔白だと主張したのです。

 神もそれを認められ、「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこのことをしたことは知っている。だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ」(6節)と請け合われます。主なる神は、ここで、異邦ペリシテのゲラルの王アビメレクについて、神を畏れる義人と認められたかのような言葉遣いをしているのです(ヨブ記1章1節参照)。

 「罪を犯すことのないように」は、「罪を犯すことを妨げた」という言葉ですが、「妨げる」という言葉は、「惜しむ」という言葉でもあります。即ち、神はここに、異邦人に対する愛、深い憐れみの心を示しておられます。主なる神は、ユダヤ人だけを愛しておられるわけではない、クリスチャンだけを愛されるのではない、異邦人も、異教徒も、愛の対象から漏れることはないということです。

 18節には「主がアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの宮廷のすべての女たちの胎を堅く閉ざしておられたからである」と記されています。「胎が閉ざされる」というのは、通常、子どもを産めないという表現ですが、一日二日でそれが確認できるはずもありません。それが問題になったということで考えれば、性的な交わりをすることが出来ないようにされたということになるのかも知れません。

 神は「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう」(7節)と言われました。ここで、アブラハムのことを「預言者」と言われます。それは、エリヤやイザヤのような預言者というのではなく、神と人との間の仲介者、神に選び立てられた人という意味で語られているものと思われます。

 というのは、アブラハムは「祝福の源」(12章2節)と言われていましたが、それは、神の祝福の仲介者ということで、アブラハムを通して、神の祝福が子々孫々、すべての人々に拡げられていくからです。

 そこでアビメレクは、「羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、そして、妻サラを返し」(14節)ました。さらに、「この辺りはすべてわたしの領土です。好きなところにお住まいください」(15節)と言います。

 アブラハムが祈ると、アビメレクの妻や侍女たちは再び子どもが産めるようになりました。ここに、預言者の使命が、神の御言葉を聞いてそれを人々に伝えるだけではなく、人々のために執り成し祈ることも含まれてることが示されています。神はアブラハムの祈りを聞かれました。アブラハムを祝福することが、アビメレクの家の祝福となりました。

 神の言葉を聞いたアビメレクがアブラハムを呼び、「どういうつもりで、こんなことをしたのか」(10節)と尋ねたのに対し、アブラハムは「この土地には、神を畏れることが全くないので」(11節)と答えていましたが、実際には、アビメレクとその家来たちが、夢でアビメレクに語りかけられた神を非常に畏れました(8節)。

 むしろ、自分の命を守るためにということで、「妹」と偽って妻をアビメレクに差し出したアブラハムの方が、神を畏れることも、神に信頼することも忘れてしまっています。自分のずるがしこさで、この難局を乗り越えようとしていたのです。

 さらに13節で、「かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に、『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人を兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです」と言います。

 ここでは、神が自分をさすらいの旅に出されたので、こうなった責任は神にあり、仕方なく、神を畏れることがないこの世を渡って行くのに、方便を用いることにしたと言い訳しています。なんたることでしょうか。

 それにも拘わらず、神はアブラハムを責めてはおられません。かつて、アブラハムを義と認められた神は、今ここにアブラハムの信仰を全く見ることができなくても、その義をアブラハムから取り上げられてはいません。

 16節でアビメレクが妻サラに、「わたしは、銀一千シェケルをあなたの兄上に贈りました。それは、あなたとの間のすべての出来事の疑惑を晴らす証拠です。これであなたの名誉は取り戻されるでしょう」と言います。ここで、アビメレクはサラにアブラハムのことを「夫」と言わず、「兄上」と呼びました。これも、アブラハムの言葉を否定せず、その名誉を傷つけないようにという配慮でしょうか。

そして、アブラハムがアビメレクに賠償金を払ったというのではありません。アビメレクがアブラハムに、賠償金として1千シェケル、ローマのお金にしておよそ1300デナリオンを支払いました。罪のない者が罪ある者のためにそれをしたというのです。それは、「疑惑を晴らす証拠」とするためです。

 これは、奇妙な表現です。それはヘブライ語原文で、「目を覆うもの、目隠し」(ケスートゥ・エーナイム)という言葉です。第三者の目から、サラを覆う、そしてアブラハムを覆う。そのための贖い代として、1千シェケルが差し出された。こうして、アブラハムとサラの名誉は保たれ、その分、アビメレクの名誉が損なわれるかたちになりました。ここに、まさに贖いの業があります。

 ということは、もともとアブラハムを義とした信仰とは、彼の行いなどに基づくものではなく、主なる神の御言葉を信じるように導かれた、主の深い恵み、憐れみに基づいているものということになります。

 つまり、どんなときでも主を信じて、その信仰が揺るがないから、神に義とされたのではないのです。アブラハムの不信仰な振る舞いにも拘わらず、全能の御手をもって恵みをお与えくださる主を信じさせていただいた、その信仰により、憐れみによって義として頂いたのです。

 もしも、アブラハムが告げたとおり、アビメレク王をはじめ、ゲラルの人々に神を畏れるところが全くなく、サラがアブラハムの妹ではなく、妻であったと知ったのであれば、それこそ、アブラハムは殺されて、サラがアビメレクのものとされたことでしょう。そうなれば、イスラエルの歴史はそこで終わったしまうことになったでしょう。全く、とんでもないことになるところでした。

 しかるに神は、その失敗を逆転させ、贈り物を得、そして、ゲラルの地に安心して住むことができるように導かれたのです。私たちは、この憐れみ深い主に信頼を置き、主の恵みに感謝と喜びの歌をささげるだけです。主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源だからです(ネヘミヤ記8章10節)。

 主よ、アブラハムの弱さにも拘わらず、いえ、弱さのゆえに恵みをお与えくださったことを、心から感謝します。私たちの人生にも、あなたの恵みが満ち溢れています。アブラハムがアビメレクのために執り成し祈ったように、私たちも聖霊の力を受けて、隣人のために祝福を祈るアブラハムの子としての使命を果たすことが出来ますように。 アーメン