「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神です)』と言った。それは、彼女が、『神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか』と言ったからである。」 創世記16章13節

 16章には「ハガルの逃亡と出産」という小見出しがつけられています。「ハガル」というのは、アブラムの妻サライに仕えるエジプトの女奴隷と、1節に紹介されています。エジプト女性ということなら、アブラム一家がエジプトに滞在していたときに与えられたのでしょうか(12章10節以下)。ファラオの宮廷に召し出されたときから、サライに仕えるようになったのかも知れません。

 「ハガルの逃亡と出産」について、その発端は2節に「サライはアブラムに言った。『主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません』」と記されています。

 サライに子が授からないというのは(1節)、11章30節から続く、アブラム、サライの大問題でした。詩編127編3節に「見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い」と言われています。
子らが神の賜物だということは、神が授けられる恵みなのです。アブラムとサライに子がないという状態も神の支配のもとにあるわけで、それもまた、神の導きというべきでしょう。

 サライは、あらためて、自分たちの間にある問題を口にしました。「主はわたしに子供を授けてくださいません」(2節)。それは、確かに事実です。しかし、それは真実かと言えば、そうではない部分もあります。というのは15章5節で、アブラムの子孫は星の数のように多くなると、神が約束しておられるからです。

 神はこの約束を確かなものとするために、アブラムと契約を結ばれました(15章9節以下参照)。そのことをサライも知っていたはずです。これまで不妊で(11章20節)年齢も進んだ今、子を授かる可能性が皆無に近いとなれば、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」という祝福の実現のため、アブラムに側室を持つよう進言するのです。

 それが2節後半の「どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」という言葉です。即ち、サライは、自分の女奴隷ハガルによる代理出産を提案したわけです。そして、生まれた子供は、女主人のものとされます。これは当時、子どもがない場合に採られる原則的解決方法で、一般に合法とされていたものでした。

 アブラムはその提案を受け入れました(2節)。そして、直ぐに実行に移されました(3節)。その結果、見事ハガルは身ごもりました(4節)。10年かかっても与えられなかった子どもが、今、サライの知恵で授かったのです。

 しかし、それでバンザイと叫ぶわけには行きませんでした。かえって、直ぐにアブラムの家に波風が立ち始めます。それまでなかったことですが、ハガルは、自分が身ごもったことが分かると、女主人に対して高慢な態度を取るようになります(4節)。あるいは、不妊の女主人を辱めるに留まらず、アブラムの子の母として、正妻の座を要求するような真似をしたのかもしれません。

 当然のことながら、サライはそれが気に入りません。自分の地位が危うくなったサライは、夫アブラムに身分の保全を求めて「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」(5節)と訴えます。

 自分の女奴隷をアブラムの側女として与えたのだから、しっかり管理、指導して欲しいということでしょうか。そこで、あらためてハガルはサライの女奴隷であることが確認され、「好きなようにするがよい」(6節)とサライに答えます。そして、サライはハガルに辛く当たりました。

 たまらず、ハガルは女主人のもとから逃げ出しました。それにより、サライは自分の正妻の座を守ることは出来たわけです。けれども、女奴隷ハガルによって跡継ぎを得るという彼女の計画は、それによって水の泡となりました。

 一方、女主人のもとを逃げ出したハガルは、故郷のエジプトに帰ろうとしていたのでしょう。7節の「シュル街道に沿う泉のほとり」というのは、イスラエルとエジプトの国境付近です。

 「ハガル」という名前は、「離脱」とか「逃亡」を意味するものと言われます。実の名を奪われた女奴隷が、「ハガル=逃亡」という汚名を着せられることになったのです。ハガルは、南に下る道を進む間、ずっとうしろを気にしていたことでしょう。それは、奴隷の逃亡には、重い刑罰が待っているからです。

 この逃避行は、ハガルにとっても大きな災難でした。もしも子を孕まなければ、今も女主人サライのもとにいて、平穏に過ごすことが出来たでしょう。女主人から側室として推挙されるほど、女主人の覚えもよかったのです。奴隷生活も悪いことばかりではなかったのに、今となっては、もう女主人のもとには戻れません。ともかく故郷に帰ろう、何かよいこともあるだろうといったところでしょうか。

 そこに主の御使いが登場し(7節)、「サライの女奴隷ハガルよ」(8節)と呼びかけました。そして、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」(9節)と言います。それは、彼女を厳しく叱責する言葉ではありませんでした。むしろ、慈愛に満ちた勧告であり、また、その言葉を聞いて不安と恐れを抱くに違いない彼女を励ます激励の言葉だったでしょう。

 御使いは「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」(10節)と約束し、さらに「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから」(11節)と言います。この「イシュマエル」というのは、「神は聞かれる」という意味の名前なのです。

 それを聞いたハガルは、冒頭の言葉(13節)のとおり、主の名を呼んで「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神です)」と言い、そして、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と告げました。主なる神が、自分を顧みていてくださる、子孫が数え切れないほどになると祝福してくださったことに感動したのです。

 詩編139編8~10節に「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」とあります。まさに、アブラムの神は、ハガルと共におられ、御手をもって導き、捉えていてくださるお方なのです。

 ハガルがシュル街道に沿う泉のほとり、そのオアシスに来たのは、水を求めてのことだったでしょう。けれども、彼女はそこで、水以上のものを見つけました。自分を見ていてくださる神を見出したのです。彼女はその場所を、「ベエル・ラハイ・ロイ」と呼びました。それは、「生きて見ておられる方の井戸」という意味です。

 これはまるで、サマリアの女が主イエスと出会い、永遠の命に至る水をいただいて、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(ヨハネ福音書4章1節以下、14,29節)と証しした言葉のようです。

 ハガルは、御使いの言葉に励まされ、自分を絶えず顧みていてくださる、エル・ロイなる主のまなざしに背中を押されて、女主人サライのもとに帰ります。そして、男児を出産し、御使いに示されたとおり、その子をイシュマエルと名付けました(15節)。これから、どのような辛いことがあっても、主が聞いていてくださると、わが子の名を呼ぶ度に確認したことでしょう。

 「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(第一コリント10章13節)という御言葉があります。ハガルはここに、主のもとに逃れることを学んだのです。

 主よ、その生涯で、苦しみに遭わずにすむ人など、一人もありません。しかし、あなたは真実なお方で、試練と共に、それを乗り越える道を備え、それに目を開かせ、乗り越える力をお与えくださいます。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということも知らされています。絶えず主に聞き、その導きに従うことが出来ますように。 アーメン