「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」 創世記11章9節

 洪水の後、箱舟を出たノアの子孫たちは、世界全地に広がって行きました(9章19節)。ノアの息子ら、その子孫は、それぞれの地に、言語、氏族、民族に従って住むようになったと、10章5節、20節、31節に記されていました。どのように氏族、民族が別れ、違う言語で話すようになったのか、その原因を説明しているのが、1節以下の段落です。

 1節には「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」と言われています。「同じ言葉を使って」は「ひとつの唇(サーファー・エハート)」、「同じように話して」は、「同じ(ひとつの)言葉(ドゥバリーム・アハディーム)」という言葉遣いです。どこでも同じ言葉で話していて、思いを通わせ合うことが出来ます。

 2節に「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた」とあります。「シンアルの地」とは、10章10節の「彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった」という言葉からも、メソポタミア平野南部から中風にかけてのバビロニア地方を意味するヘブライ語の表現と考えられます。

 いずれにせよ、シンアルの地に住み着いた人々は、「れんがを作り、それをよく焼こう」(3節)といって、素焼き煉瓦造りを始めます。パレスティナでは、建築に石材や木材を用いますが、メソポタミアでは、石材や質のよい木材に恵まれなかったので、煉瓦を作っていました。

 紀元前4千年から1千年間は、粘土を乾燥させただけの日干し煉瓦を使っていましたが、紀元前3千年ごろ、粘土を焼いて素焼き煉瓦を作るという技術が生み出されて、壁の内部には日干し煉瓦を用い、素焼き煉瓦はそれを保護するために用いられたようです。そして、漆喰の代わりに、大量にあるアスファルトを用いられました(3節)。

 紀元前3千年ごろといえば、ジグラットと呼ばれる塔が造られるシュメール・アッカド時代にあたります。ジグラットとは、アッカド語で「高いところ」を意味しているそうです。ジグラットの最上部には月神ナンナルを祀る神殿が載せられています。ジグラットは、神が訪れる人工の山として建造され、そこで人が神と出会うことが出来ると考えられていました。

 4節に「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った」と記されています。高い塔を建てる目的は、名声を得て、全地に散らされることのないようにするということでした。

 シンアルの地に住み着いた人々が「東の方から移動してきた」理由が、より有名な強い民に追い払われた結果だとすると、この地から余所に移動させられずにすむように、堅固な町を建てたいという願いは、分からないではありません。

 ここで「天まで届く塔」を建てるのは、外敵から町を守るためであり、それがどこよりも高い塔であれば、それを建てた人々の威信を内外に示すことが出来ると考えたわけです。その意味で、ここに示されているのは、所謂「ジグラット」のような宗教施設ではありません。

 けれどもそれは、「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」(9章7節)と言われた主の御命令に背くことになりました。また、自分たちの力を周囲の人々に誇示しようとすることは、他の人々よりも自分たちを上に置き、神に近い存在として「ジグラット」を造りたいと考える傾向を示しているとも言えるでしょう。

 主なる神は、高い塔のある町を建てようとしている人々の振る舞いを御覧になるため、天から降って来られます(5節)。勿論、申し上げるまでもないことですが、主なる神は、天から降って来られなければ、人間のしていることが分からないような、近視眼的なお方ではありません。

 これは、天まで届く塔のある町を建てて名をあげようと考えている人々に対し、天は途方もなく高いところにあり、一方、人間の業はあまりにも小さいので、それを見るために近寄って来る必要があるという、ある種の皮肉を、ここに込めているわけです。

 皮肉と言えば、高い塔が石造りではなく煉瓦で築かれるというのも、弱くて不十分なものであると言おうとしているということも出来るでしょう。2年前のトルコ東部地震では、煉瓦積みの家の崩壊で犠牲となった方が多くあったと報道されていました。

 塔を建てようとしている人々の振る舞いをご覧になった主が「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」(6節)と言われました。

 一つの民で、一つの言葉を話しているから、何を企てても、妨げることができないということで、一致の大切さ、その力強さを教えられます。それは、主なる神ですら妨げられないことだというのです。人々はそれを知っており、一致が乱され、全地に散らされることを恐れます。自分たちの名をあげたいという野望が妨げられてしまうからです。

 主なる神は7節で、「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」と言われ、それを実行されました。その結果を言い表しているのが、冒頭の言葉(9節)です。

 人々は、同じ言葉を話しながら、素焼き煉瓦とアスファルトを得て、天にまで達する高い塔のある町を建てようとしました。しかし、主によって言葉が乱され、話が互いに通じ合わなくなって、町が建設出来なくなりました(8節)。それで、その町は「バベル」と呼ばれるようになったと説明されます。

 「バベル」とは、「バビロン」の古い名前で、バビロニアの言葉で「神の門」という意味です。しかし、ここでは「混乱」を意味する「バラル」という言葉に由来する名前だと紹介されています。これは、アダムとエバが、神のようになろうとして禁を犯した結果、神との関係が壊れ、夫婦関係もおかしくなったことを思い出します。

 人がいかに高い技術や知識を獲得し、それによって神のようになろうとしても、実際に神の門に到達することなど出来ないのです。恐怖心で人の心を縛り、一つになって突き進んでいるつもりでも、そこにはしかし、混乱しかないのです。

 言語が混乱させられたというのは、今まで日本語を話していた人が急に英語を話し始めたというような、全く違う言語に変わったということでしょうけれども、あるいは同じ日本語を話していながらも、自分の考えに固執しているため、相手の話が全く理解出来ないという事態を示しているのかも知れません。

 言葉が乱されて、思いの通じなくなった人々は、町を建てることが出来ず、そこから全地に散らされて行きました。しかしながら、全地に広く散らされて行くこと自体は、刑罰などではありません。そもそも神は「産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」と命じられていたのであり、それが実行されたということだからです。

 とはいえ、互いに言葉が通じない、きちんとコミュニケーションが出来ないというのは、多くの問題を生じさせます。背き合うことを、聖書は「罪」と言います。罪のゆえに、私たちは神の恵みを失い、その栄光を受けることが出来なくなってしまいました(ローマ書3章23節)。

 ゼファニヤ書3章1,2節に「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。この都は神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった」と言われ、そのため6節で「わたしは諸国の民を滅ぼした。彼らの城壁の塔は破壊された。わたしは彼らの街路を荒れるにまかせた。もはや、通り過ぎる者もない。彼らの町々は捨てられ、人影もなく、住む者もない」と告げられています。

 ところが9節には「その後、わたしは諸国の民に清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える」と預言されています。罪と罰が宣告された後、神は救いを用意されるということですが、諸国の民がかつてのように「一つとなって主に仕える」と言われています。

 私たちは、聖霊の働きによってイエスを救い主、主と信じる信仰に導かれました。信仰によって私たちには永遠の命が授けられ、神の子どもとされる特権に与りました。神に対して「アッバ」、お父ちゃんと呼ぶ資格が与えられたというのです。それは、私たちの功績によって獲得したなどというものではありません。主がお与えくださった恵みです。

 聖霊は私たちを祈りに導きます。どう祈ればよいか分からない弱い私たちのために、呻きをもって執り成してくださいます(ローマ書8章26節)。それによって、どんなマイナス状況をもプラスに変えてくださるのです(同28節)。

 また、聖霊は私たちに、主の恵みを証しする力を与えてくださいます(使徒言行録1章9節)。常に主を仰いで祈りましょう。そして、聖霊に満たされた主の証人にならせて頂きましょう。

 主よ、私たちの家庭や地域、国の至るところで、御言葉が語られ、その権威が回復しますように。国の指導者たちが、主を畏れ、主に仕える真実な心と考えをもって、国の将来に資する正しい政治を行うことができるよう、上よりの知恵と力を与えてください。私たちを聖霊に満たし、主の恵みを証しする力を与えてください。 アーメン