「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」 創世記8章1節

 冒頭の言葉(1節)に「地の上に風を吹かせられた」という言葉があります。「風」はヘブライ語で「ルーアッハ」と言います。1章2節に「神の霊が水の面を動いていた」とありましたが、「霊」が同じ言葉の「ルーアッハ」です。

 天地創造の初め、まだすべてが混沌として、闇が大いなる深淵の面にあり、水の面を神の霊が動いていて、そこに秩序が造り出されていったわけです。それと同じように、深淵の源が裂け、天の窓(複数)が開いて、大空の上と下の水が一つとなり、一切が初めの混沌とした状況に戻されたところに、風が吹き、秩序が回復されていくのです。

 そのきっかけとなったのが、「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を心に留め」(1節)というところです。あらゆる命を奪い去った水の面をさまよう箱舟が、そのままの状態で放置されるならば、水と食料を失って、彼らも死に絶えることになったでしょう。神はそのようになることを望まれませんでした。風を吹かせ、水を追い遣られます。

 3節に「百五十日の後には水が減って」とあり、4節で「第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった」と言われます。7月17日というのは、2月17日に洪水が起こって(7章10節)「150日」、ちょうど5か月たった期日です。その日、アララト山に箱舟が漂着したのは、すべて神の導きです。箱舟には舵も動力もありません。すべて風任せ、波任せです。

 山頂より15アンマ上に水面があり、そこを漂流しているわけで、仮に、太平洋上に箱舟があれば、とめどなく船は動かされて、水が減り始めているという実感を持つことは、殆ど出来なかったことでしょうし、また水が元どおりになっても、箱船から出ることが出来なくなっていまいます。山にぶつかって船が止まったことで、そこに陸があるということを、はっきり感じ取ることが出来たでしょう。

 それから2か月と2週間経過した10月1日に、山の頂が水面に顔をのぞかせるようになりました(5節)。そして、40日後、すなわち11月10日になって、ノアは、水が引いたかどうかを確かめようと、まず烏を放します(7節)。続いて、鳩を放します(9,10,12節)。それで、水が引いたかどうかを確かめていたわけです。

 この出来事から、6節でノアが開いた箱舟の窓は、箱舟の側面ではなく、明かり取りとして設けられた屋根の窓であったことが分かります。側面に窓があれば、鳥を放さなくても、自分たちの目で水が減っていることを確認出来たでしょう。

 反面、窓があって外の状況をつぶさに見ることが出来たなら、雨の降り始めから地上の命が絶やされるところを目撃することにもなったでしょうし、何日も雨が降りやまず、何か月も水が減らない状況に、希望を失うような事態になったかも知れません。

 側面の出入り口は神によって閉ざされたまま、屋根に取り付けられた明かり取りだけが外の世界を知る手掛かりということは、ノアたちはいつも天を仰いでいたということ、それによって引き起こされる出来事にすべて身を委ねるほかはなかったということ、言い換えれば、神にすべてを委ねていたということです。そして、主なる神も、そのノアたちに目を留めてくださったのです。

 雨の降り始めから1年後、最初の月の一日に完全に水が引き(13節)、第2の月の27日、つまり、1年と10日が経過した後、地はすっかり乾きました(14節)。そこで、神はノアに箱舟から出よと促されます(15節以下)。そこで、ノアと家族、動物たちは、神に告げられた通り、箱舟から出ました。(18,19節)。

 それからノアは、主のために祭壇を築き、清い家畜と清い鳥のうちから焼き尽くす献げ物をとって献げました(20節)。「祭壇」(ミズベーハ)は、いけにえの動物を「屠殺する」(ザーバー)という言葉から来ており、聖書中に403回出て来ますが、ここで最初に用いられています。

 ノアは、そのようにすることを何時何処で学んだのか分かりませんが、箱舟を出て飲み食いしたり、住み着く場所を探すよりも先に、神にいけにえをささげて礼拝したのです。主に従う正しい人は、「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ福音書6章33節)という御言葉を実践する者であることが、ここに明確に示されているわけです。

 焼き尽くす献げ物の芳しい香りをかいだ主が、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(21節)と語られました。

 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と主なる神が決意を述べられたのは、洪水を経験した人々が、徹底的に悔い改めて二度と悪を行わないという決意をしたからなどということではありません。というのは、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と、その理由の言葉が記されているからです。

 「常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」(6章5節)というのが、神が洪水によって地の面から人をぬぐい去ろうとお考えになった理由でした。しかし、洪水後も、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」と言われるということは、人間は、洪水の前と後で何ら変わっていないということになります。

 それならばなぜ、「呪うことは二度とすまい」ということになるのでしょうか。その問いの答えは、冒頭の言葉の「ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め」という言葉にあるということでしょう。つまり、神がノアたちに御心を留めてくださらなければ、地上に人類が生き残ることは出来なかったのです。

 宗教改革者カルヴァンは、創世記を註解して、「もし人々がそれにふさわしく扱われねばならぬとすれば、毎日毎日洪水が必要であろう」と記しています。確かに、私たちは、自分の心に思い計る悪のゆえに、毎日洪水によって神の裁きを受けなければならないでしょう。

 義なる神の御前に、自分一人で立つことの出来る人間など、存在しません。皆、神の憐れみを必要としています。即ち、神が、その憐れみによって私たちに御心を留めて下さるのでなければ、誰も生きられないということです。

 それは、ノアにとってもしかりです。神がノアを御心に留められ、風を吹かせられたからこそ、水が減り始めたのです(1節)。そうでなければ、永遠に大水の上を漂っていなければならなかったことでしょう。そして、結局滅びを招くほかなかったと思われます。

 時折、私たちの周りで、思いがけない出来事が起こります。災害に見舞われる人がいます。悲惨な事件に巻き込まれる人がいます。それはしかし、神の呪いや罰などではありません。大規模災害を神の裁きのように言う人が時折ありますが、神は「呪うことは二度とすまい」と仰っています。

 神は、ノアとその家族、家畜に目を留められたように、そのような被害を蒙った人やその家族を心に留め、愛のまなざしを向けてくださるでしょう。そして、神に代わったつもりで被害を被った人を断罪するようなら、他者を量った計りで自分も量り返され、それこそ、神の裁きを被ることになるでしょう。その人は無事では済むでしょうか。

 忍耐と慰めの源であり、また希望の源である神に信頼し(ローマ書15章5,13節)、聖霊の導きに従って共に歩みましょう。

 主よ、罪のもとにあり、滅びを刈り取るほかなかった私たちに目を留め、救いへと導いてくださったことを感謝します。私たちにキリスト・イエスに倣って同じ思いを抱かせ、私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてください。どんな時にも、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてください。 アーメン