「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいるもの、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」 ヨハネの黙示録17章14節

 17章には、赤い獣にまたがった一人の女が出てきます(3節)。それは1節で「多くの水の上に座っている大婬婦」と言われ、また5節で「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」と呼ばれています。

 女の座っている「多くの水」について、15節に「あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である」と説明されています。また、「大バビロン」と呼ばれた女について、18節で「あなたが見た女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである」と言われます。

 つまり、黙示録が執筆されている時代、様々な民族、種族、国民の上に君臨し、その王たちを支配している都とは、ローマ以外にあり得ないでしょう。女がまたがる赤い獣の七つの頭について、9節に「七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことである」とありますが、ローマの都はティペル河畔の七つの丘の上に築かれていました。

 「そして、ここに七人の王がいる」(9節)は、口語訳、岩波訳と同様「また(それは)七人の王のことで(も)ある」と解するべきでしょう。ただ、黙示録執筆当時のドミティアヌスまで、ローマ皇帝は12人います。そのうち7人とは誰のことを指すのか分かりません。

 ただ、11節に「以前いて、今はいない獣は、第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる」と言われる八番目の皇帝のことが問題です。「以前いて、今はいない獣」、「先の七人の一人」とは、既に死んだ人物でありながら、次代の皇帝として再び登場してくるということです。

 このことについて、研究者たちが、「ネロの再来」伝説との関連を指摘しています。キリスト教徒の迫害者として知られるネロは自殺して果てましたが、後に、彼は死んだのではなく遠方に雌伏していて、ローマの宿敵パルティア人を率いて戻って来るとか、死人の世界から復活して来るという伝説が生まれたのです(13章3節も参照)。

 「みだらなこと」、「みだらな行い」(1節)とは、ローマ帝国の繁栄による腐敗、退廃を示すような用語です。けれども、旧約以来の伝統では、神に対する敵対、神を神としない不信、そして異教の神々を拝む偶像礼拝を指しているといってよいでしょう。「この女(ローマ)のみだらな行い」(2節)とは、ローマ国家の偶像礼拝、即ち皇帝礼拝のことをいうのです。

 ローマ皇帝が神のように崇められているときに、皇帝礼拝を拒むクリスチャンたちは、圧倒的な帝国の力の前にまったく無力な存在でした。けれども、冒頭の言葉(14節)の通り、「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」とヨハネは語ります。小羊が獣とどのように戦うのでしょう。どのように勝利するのでしょう。

 小羊には、獣を引っかき、捕らえる爪はありません。獣を突く角もありません。噛みつき、引き裂く牙もありません。運動能力が優れているということでもないでしょう。小羊の戦いは、力によるものではないということです。

 ゲッセマネの園で主イエスを捕らえにきた大祭司の手下どもに、弟子の一人が剣を抜いて切りかかったとき、主イエスは「剣を鞘に収めよ、剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ福音書26章47節以下など)と言われ、無抵抗のまま捕らえられ、連れられて行きました。自分を裁く不当な裁判の中でも、何も答えられなかったと言われます(同27章12節など)。

 そして、死刑が確定して(26章26節、27章15節以下など)十字架に磔になり(同35節など)、そこで息を引き取られました(同50節など)。これを見る限り、小羊なる主イエスは、敗北してしまったとしか、考えられません。主イエスを殺した者たちは、その日、勝利の美酒に酔ったことでしょう。

 ところが、小羊が彼らに打ち勝つと言われるのは、主イエスの死によって、神の救いの御業が完成したからです。悪の力は、神の救いの御業を阻止することが出来なかったということです。主イエスを信じる者は罪赦され、永遠の命が与えられ、神の子となる資格が授けられます。

 神の子とされた者たちは、この世のものに対して力で対抗しません。「小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた」(14節)、同じように権力の前に無力です。しかし、権力を恐れず福音宣教の働きを進めます。それが神の救いの業だからです。そして、歴史上どんな権力も、福音宣教の働きを阻止出来ませんでした。まさしく、小羊が主の主、王の王だからです。

 キリストは、ダビデの子と呼ばれました。ダビデは、勿論キリストではありません。罪多き人物でした。けれども、一つその理由を挙げるとすれば、彼は権威に対して力で立ち向かいませんでした。ダビデは、サウル王から命を狙われて逃亡生活に入ります(サムエル記上19章11節以下)。

 その中で二度、ダビデがサウルを手にかけるチャンスがありました。けれども、「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけるのを、主は決して許されない」(同24章7節、26章11節)と、そうする意思のないことを示します。ここに、父なる神に完全に服従された主イエスの姿を見ることが出来るというわけです。

 私たちの勝利も、主の御言葉に対する従順さ、忠実さをもって示されるのです。それは、世の人々に対して無力さを示すことかもしれません。しかし、私たちが語る福音の言葉だけが永遠に残るのです(第一ペトロ書1章25節)。

 主よ、御言葉に服従するというのは、確かに戦いです。服従することを妨げようとする力が、様々な形で働きかけてきます。自分との戦いということもあります。小羊なる主イエスが主の主、王の王として、いつも私たちの心の王座に君臨してください。そして、主ご自身が勝利を収めてください。私たちはあなたにお従いします。御名が崇められますように。 アーメン