「汚れた霊どもは、ヘブライ語で『ハルマゲドン』と呼ばれる所に、王たちを集めた。」 ヨハネの黙示録16章16節

 16章には、7つの封印(6~8章)、7つのラッパ(8~11章)に続く、第三の災いのグループ(7つの鉢)が登場してきます。災いの種類は、それぞれよく似ていますが、その規模が順々に大きく拡大されています。ヨハネは、世の終わりに起こるこれらの災いを、神の義による裁きとして描いています。神に逆らって悔い改めようとしないものは、苦しめられ、滅ぼされます。

 それは、度重なる災いでも頑なになって悔い改めようとしなかったエジプトのファラオが、過越の事件と紅海の出来事を通して、最終的に滅ぼされたことを思い出させます。出エジプトの出来事になぞらえて、クリスチャンたちを苦しめているローマ帝国による迫害にも、やがて神による裁きがなされ、教会があらゆる苦しみから解放される時が来るという希望を示しているのです。

 黙示録が記されてから200年後(AD313年)、皇帝コンスタンティヌス1世がミラノ勅令を発布して、キリスト教がローマ帝国の公認宗教となりました。弾圧するよりも公認して利用した方が得策と考えたということのようですが、いずれにしても、教会は確かに、厳しい弾圧の中でじっと我慢というのではなく、キリストの勝利を信じて福音宣教に励んでいたわけです。

 冒頭の言葉(16節)の「ハルマゲドン」は、聖書を読まない人でも耳にしたことあるものでしょう。ただ、地球滅亡とか宇宙大戦争というイメージで捉えられていて、正しい意味で用いられてはいません。1998年に「アルマゲドン」というSF映画が作られていますが、大きな惑星が地球に衝突して、そのために地球が消滅するという危機を、この題名で表現しているのでしょう。

 「ハルマゲドン」とは、「ハル」が「山」、「マゲドン」が「メギド」という地名です。つまり、「メギドの山」という意味になります。ただ、「メギド山」はイスラエルには存在しません。なぜ、ヨハネは汚れた霊どもが「ハルマゲドン」に全世界の王たちを集めると記しているのでしょうか。

 まず考えられるのは、汚れた霊どもが世界の王たちを集めるのは、最後の抵抗の戦いのためでしょう。古来、メギドは何度も戦場になりました。中でも特に、バビロンと戦うために北上するエジプトを阻止しようとしてイスラエルのヨシヤ王が出て行き、メギドでの戦いに敗北し、戦死しています(列王記下23章29,30節、歴代志下35章20節以下)。

 ヨシヤ王は、申命記の御言葉に従って宗教改革を断行し、それが祝されて国力を増大することが出来ました(列王記下22章8節以下)。しかし、その成果に思い上がったのが、メギドでの敗北の原因だったと思われます。汚れた霊どもは、メギドで神の民イスラエルに対する勝利を再現したいと考えたかのようです。

 しかし、上述のとおり「メギドの山」は実際には存在しません。存在しない地名が記されているということは、汚れた霊どもと天の軍勢の戦いはもはや起こらないという意味になるのではないでしょうか。

 実は、メギドの北西20kmの距離にカルメル山があります。そこは、エリヤがバアルとアシェラの預言者たちを打ち負かした所です。主が神か、バアルやアシェラが神かという戦いで、主が神であることが明らかにされたという出来事がありました(列王記上18章16節以下)。そのためか、ハルマゲドンとはカルメル山のこととする学者もいます。

 そうであれば、汚れた霊どもは、エリヤのときの報復戦を挑もうとしていることになります。ところが、戦いが始る代わりに、17節に「事は成就した」(ゲゴネン:it is done)という大声が神の玉座から聞こえたとあります。これは、主の勝利宣言です。

 それで大地震が起こり(18節)、ローマが引き裂かれ、諸国の方々の町が倒れたと言われます(19節)。結局、戦いは起こらずじまいでした。汚れた霊どもによって集められた全世界の王たちは、最後の闘いを戦う前に、あの大きな都バビロンが裁かれたのを見て、嘆き悲しむことになるのです(18章9節参照)。

 つまり、ヨハネがこれを記したのは、どこで最終的な戦いが起こるか、どのような戦いになるかということではありません。主イエスが贖いの小羊として屠られた後、罪と死に打ち勝って甦られ、天に上げられたことで、既に主の勝利と悪しき勢力の裁きは確定しています。それで、クリスチャンたちが汚れた霊どもに惑わされず、最後まで主イエスの勝利を信じるように、求められているのです。

 そのことを、15節に挿入されている言葉が示しています。これは、主イエスがルカによる福音書12章37節で「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と語られた言葉を模しています。ここに「幸い」という言葉があります。黙示録中、これが3度目です(1章3節、14章13節)。

 「目を覚まし、衣を身に付けている人は幸いである」(15節)ということは、キリスト者たちに目を覚まして備えているよう勧告しているのです。

 衣を身に着けているというのは、3章4節の「白い衣を着てわたしとともに歩くであろう」という表現などから、キリストを信じている、キリストに従って歩んでいることを指しています。目を覚ましているとは、悪しき霊に惑わされないこと、キリストの勝利を信じて信仰を守ることです。

 「身に着ける」と訳されているのは「テーレオー:守る」という言葉で、黙示録にも11回用いられ、殆ど「守る、守り続ける」と訳されています。「着物を守る」という訳ではおかしいので、「身に着ける」と訳されていますが、「キリストを信じる信仰」を「守る」ことが、「衣」を「身に着けること」ということです。

 ローマ皇帝の圧倒的な権力の前にまったく無力に見えるクリスチャンたちが、勝利の主の御手の内に守られていること、そのご支配の中に生かされているということを、この御言葉によって確信し、大いに励ましを受けたのです。

 ヨハネは、厳しい現実から逃れるためにおとぎの世界を描いたのではなく、厳しい現実に立ち向かうために、信仰による勝利を描きました。夢にまどろむのではなく、目を覚ましているためです。そして、勝利の主に対して賛美の歌を歌います。

 15章にも、全能の神を讃える歌が記されていました。既に勝利を得たから歌っているのではありません。勝利を信じているから歌うのです。ここに信仰があります。賛美の歌を通して勝利に導かれるとも、言うことが出来ます。

 詩編46編11節に「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」とあります。私たちが自分の知恵や力に頼ることをやめ、主に頼るとき、この手ごたえを味わうことが出来るのです。

 どんな問題があっても、神を賛美してみましょう。歌を歌う気分でなくても、御名を崇めましょう。問題があるからこそ、苦しみを味わっているからこそ、歌うのです。そこに主がともにいて下さいます。そこで主が働かれます。そして、聖霊を求めて祈りましょう。約束どおり、主は御霊に満たしてくださいます。聖霊を通して、神の愛が私たちの心に注がれます。

 主よ、マイナスと見える現実にではなく、私たちに勝利を与えてくださる主に目を留めます。御名を呼び求めて祈ることが出来ることを感謝します。聖霊も弱い私たちのために呻きをもって執り成してくださり、万事を益としてくださることを感謝します。御言葉と祈りを通して、絶えず正しい道へと導いてください。 アーメン