「わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜ように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。」 ヨハネの黙示録10章10節

 7つの封印が解かれるとき、6番目(6章12節以下)と7番目(8章1節以下)の間に、幕間劇ともいうべき物語の展開がありました(7章)。同様に、第六の天使のラッパで災いが生じた後(9章13節以下)、第七の天使のラッパが吹かれる(11章15節以下)までの間に幕間劇が挿入されます(10章1節以下)。

 封印にしろラッパにしろ、災いが神に従わない者たちに対して臨むのに対し、挿入されている幕間劇では、神の刻印を押された神の僕、キリスト者たちはどうなるのかということが物語られています。
 
 地上に一人の力強い天使が天から降って来ました(1節、5章2節、18章21節参照)。雲をまとって天から降って来たこと、頭に虹、顔は太陽、足が火の柱と光り輝く様(1節)は、天的な栄光をあらわしています。手には巻物を持っていました(2節)。それは「開かれた小さな巻物」と記されていますので、神の右の手にあった巻物とは違うようです(5章1節)。

 5章2節で力強い天使が「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げたのと同様、本章の「もう一人の力強い天使」(1節)も「獅子がほえるような大声で叫んだ」(3節)と言われます。ホセア書11章10節に「獅子のようにほえる主」という言葉があり(アモス書3章8節も参照)、この天使が神に近い存在であることを示しています。

 その「獅子が吠えるような大声」に対し、「七つの雷がそれぞれの声で」(3節)語ります。雷が語るというのは、他に例がありません。ただ、ヨハネ福音書12章29節に「そばにいた群衆は、これ(天からの声:同28節)を聞いて、『雷が鳴った』と言い、ほかの者たちは、『天使がこの人に話しかけたのだ』と言った」とあり、神の声と考えてよさそうです。

 その声を書き留めようとすると、天から「七つの雷が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはいけない」(4節)という天の声がありました。8節にも、天から語りかけられた声が記されています。すべての神の言葉が秘められているのではなく、このように告げ知らせられている天の声もあるわけです。これは、あらゆる秘密に通じることは出来ないというメッセージなのでしょう。

 すると、かの天使が「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する」(6,7節)と、神にかけて誓いました。この後の記述を見ると、天使がラッパを吹いてすぐに世の終わりが来て救いが完成するわけではありません。キリスト者がまだしばらく艱難のときを過ごさざるを得ないことも、「秘められた計画」の中に入れられていたということでしょう。

 それに対して天からの声があり、天使の手にある開かれた巻物を受け取れと著者に告げます(8節)。ヨハネが天使に巻物をくださいと言うと、天使は、「受け取って、食べてしまえ」(9節)と言います。ヨハネが言われたとおりに食べると、口には甘かったけれども、腹が苦くなったというのが、冒頭の言葉(10節)です。

 これは、どういうことなのでしょうか。以前、英単語を憶えるために、辞書を片っ端から暗記して、暗記したページは食べてしまったという人がいました。それで記憶力が増すということはないと思いますが、何が何でも憶えるのだという気迫が伝わってきます。英語を自分のものにするということですね。同じようなことを、ここに見ることが出来ると思います。

 著者がその巻物を食べたのは、11節によれば、多くの民族、国民、言葉の違う民、また王たちについて、預言するためです。そうするとこれは、エゼキエル書2章8節~3章3節に記されている預言を敷衍したものということが出来そうです。

 エゼキエル書3章1節に、「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」という言葉があり、そして同2節に、「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」と言われています。エゼキエルは、神の御言葉が真の食物であることを味わったわけです。

 しかし、差し出されても口を開かなければ、味わうことが出来ません。語られる言葉に耳を傾けなければ、その意味を受け止めることが出来ません。神は、「イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに彼らはわたしに聞こうとしない者だ」(同7節)と言われています。聞こうとしない、反逆する者に向かって語るのは、辛いこと、空しいことです。

 その上、預言者が語るのは、聞き手が嬉しくなるような祝福の言葉ではなく、むしろ聞き手を怒らせ、乱暴されるような神の裁きの言葉なのです(同2章6節)。神は聞き手に悔い改めを求めているのだけれども、相手が聞く耳を全く持っていないわけです。

 そういうわけで、著者ヨハネにとって、教会を迫害する者の裁きを語るのは、教会の解放と救いの実現につながるのですから、口に甘いということになるわけですが、しかしながらそれが腹に苦いというのは、預言が成就するためには、ヨハネを含めて教会がなお苦難を経なければならないということを示しているのです。

 それでもヨハネたちが苦難に耐えてこの預言の言葉を語り続けているのは、自分たちを救いに導いてくださった主イエスの愛があるからです。主イエスの愛は、主イエスの十字架の犠牲を通して示されました。私たちは主イエスが犠牲となってくださったことを、主の晩餐式ごとに覚えます。

 あのパンと杯が、私たちに差し出された巻物ということでしょう。それは、口に何と甘いことでしょうか。しかし、それがキリストの裂かれたお体、流された血潮であることを考えたとき、甘くて美味しいだけのものではなくなります。私たちがキリストの愛の証人となることを、それは求めているからです(第一コリント書11章26節参照)。

 主の深い憐れみによって救われ、召し出された者として、その使命を自覚し、聖霊の力をいただいて、役割を全うすることが出来るよう祈りつつ励みましょう。

 主よ、あなたは無に等しい者をご自分の民として選ばれました。あなたの深い愛と憐れみがなければ、選ばれることのなかった私たちです。そして、あなたが力と知恵をもって助けてくださらなければ、何をすることも出来ません。あなたが命じられるとおりに従いますから、どうか助け導き、御業のために用いてください。 アーメン