「香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。」 ヨハネの黙示録8章4節

 今日は8章からの学びです。神の右の手にある巻物の第七の封印が開かれます。第七の封印が開かれたとき、終末の到来が期待されましたが、訪れたのは「半時間ほどの沈黙」(1節)でした。「半時間ほど」というのですから、その沈黙は長い時間ではありません。

 天において、その沈黙が起こったというのですから、それまで次々と封印が開かれて、戦争や飢饉、疫病、地震や雹、火による災いが起こっていましたから、最後の封印が開かれたら何が起こるのかと、だれもが固唾をのんでそれを見ようとしたということなのでしょう。

 ヨハネも、天が沈黙に包まれている中で、これから何が起ころうとしているのか注目していたようです。すると、神に仕えている天使たち7人が、神の御前に立ちました。そして、彼らに七つのラッパが与えられました(2節)。

 聖書の中で、ラッパは喜びの表現や(王上1章34節、王下9章13節)、神を賛美するため(詩編47編6節、81編4節、150編3節など)、また警戒信号や(ネヘ4章12節、エレ4章5節など)、戦闘開始の合図としても(ヨシュア6章5節、士師3章27節、7章18節など)用いられています。ここでも、神に敵対するものに対して、裁きが始まる合図として用いられているわけです。

 それはまた、神の裁きが始まることを願っていた殉教者たち(6章10節)、そして、選ばれた聖徒たちにとっては(7章3節以下)、神の救いが完成される喜びの表現として受け止められたことでしょう。

 第七の封印が開かれて、七つのラッパの災いが始まるということは、その災いが巻物に記されていたものということであり、小羊によってその封印が開かれたのだから、この災いの主導権が小羊にあるということになります。

 けれども、ラッパが与えられた7人の天使とは「別の天使」(3節)が登場します。手に金の香炉を持っています。そして祭壇のそばに立ちます。これは、「香をたく祭壇」(出エジプト記30章1節以下)です。この天使に多くの香が渡されました。それは「すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるため」です。

 ヨハネは冒頭の言葉(4節)のとおり「香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った」と記します。5章8節に「四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである」と記されていました。

 金の香炉を手に持つ天使に聖なる者たちの祈りという多くの香が手渡され、それを玉座の前にある金の祭壇に献げようとしています。香の煙が、神の御前へ立ち上ったというのですから、聖なる者たちの祈りが神に届いたということを示しています。

 祈りの内容はどちらの箇所にも明示されていませんが、5章では長老たちが巻物の封印を開く小羊に対する賛美の歌を歌い、6章で封印が開き始められました。8章では七つのラッパの災いが起こされています。これらのことから、恐らく聖なる者たちを苦しめたこの世の悪に対する「血の復讐」(6章10節)を願い求める祈りといってよいでしょう。

 続いて「天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上に投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こり」(5節)ました。雷や稲妻、様々な音などについて、4章5節に「玉座からは、稲妻、さまざま音、雷が起こった」と記されていました。

 このことについて、モーセがシナイ山で神とお会いしたときに、同じような出来事が起こっています(出エジプト記19章16節以下)。ということは、雷や稲妻、様々な音、地震は、神が顕現されたしるしということです。

 祭壇の火を香炉に満たしてそれを地上に投げつけたというのは、「火」がしばしば神の裁きの手段として用いられていることから(創世記19章24節以下、イザヤ書66章15,16節、エゼキエル書38章19節など)、聖なる者たちの祈り(3,4節、5章8節)や殉教者たちの「血の復讐」を求める叫び(6章10節)に答えて、いよいよ神の裁きが地上に下ることをあらわしているわけです。

 ラッパが吹かれて起こる災いは、イスラエルの民がエジプトを脱出する際に、モーセを通して表された災いに似ています(出エジプト記7章14節以下)。

 第一のラッパで血の混じった雹と火が地上に投げ入れられ、木や青草を焼きました(7節)。これは、出エジプト記9章13節以下の「雹の災い」に似ています。第二のラッパでは、火の山が海に投げ入れられ、海の水が血に変わって海に住む生き物が死にました(8,9節)。これは、出エジプト記7章14節以下の「血の災い」に似ています。

 第三のラッパでは、燃える星が川の水源の上に落ち、水が苦くなって多くの人が死にました(10,11節)。この☆の名は「苦よもぎ」(11節)と言います。これは、出エジプト記にはない災いの表現ですが、エレミヤ書9章14節に「見よ、わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる」という言葉があり、神に背き、バアルに従って歩む頑なな者の裁きが預言されています。

 因みに、今から31年前の4月、「苦よもぎ」という意味の名を持つ町で大変な事故が起こりました。事故が起きるまで、町の名を聞いたことはありませんでした。その名前は、ロシア語で「チェルノブイリ=苦よもぎ」と言います。

 原発事後当時、黙示録との関連を語る人が随分たくさんおられました。勿論、その事故は、黙示録の預言の成就などではありません。しかし、原発事故の恐ろしさ、被爆の深刻さという点で、無軌道な原子力開発に警鐘を鳴らしたのは確実です。

 第四のラッパでは、天体が損なわれて暗くなりました(12,13節)。これは、出エジプト記10章21節以下の「暗闇の災い」を思わせます。かくて、出エジプト記のときの災いを模して裁きが描かれていますが、その規模はずっと拡大されていて、地と海と天体の三分の一を損なうまでになっています。

 このような災いから、何を学びますか。それは、私たちが神の声に耳を傾けるべきだということでしょう。それは、神ならぬものに寄り頼んできたことを悔い改めなさいということではないでしょうか。エジプトのファラオが心を頑なにして聞くことを拒んだような愚を、繰り返してはなりません。それは、なお大きな災いが地上に臨み、破滅が人類の上に落ちかかるからです(13節)。

 今一度、神の前に静まりましょう。神の御言葉に耳を傾けましょう。御心を悟り、その導きに従いましょう。それこそ、悔い改めて福音を信ずることです。

 主よ、どうして自然災害が頻繁に起こり、さらに福島の原発事故のようなことが起きるのでしょうか。これらが黙示録の成就だとは思いませんが、重大なメッセージが語られているように思います。幸せを追求して地球規模で自然を破壊し、進歩を追及して心も体もゆとりを失っています。どうか、眠りから目覚めさせてください。何が本当に大切なものなのか、立ち止まって静かに見つめ直し、悔い改めることが出来ますように。 アーメン