「この後、わたしが見ていると、身よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数え切れないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊に前に立って、(大声で叫んだ。)」 ヨハネの黙示録7章9節

 今日は7章の学びです。ヨハネは、大地の四隅に4人の天使が立っているのを見ます(1節)。彼らは、「大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて」います。それは、大地と海を損なうという災いを下す風で(2節参照)、天使たちは風を吹かせるタイミングを計っているのです。

 そこに、神の刻印を持ったもう一人の天使が登場します(2節)。彼は、四人の天使たちに「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」(3節)と大声で呼びかけます。彼は、イスラエルの子らの全部族の中から、14万4千人に刻印を押しました(4節以下)。

 この後、8章には七つ目の封印が開かれて、七人の天使が七つのラッパを持って、新たな災いの舞台の幕が上がります。7章は、巻物の七つの封印のうち六つが開かれ、残り一つとなったところで、幕間劇が始まったという場面です。

 そこで、上述のとおり14万4千人が神の「刻印」を受けたということでした。材木や家畜などには、屋号や飼い主を示す焼印が押されます。神の刻印を受けた人は、神が所有者であることを示すのです。9章4節の言葉から、額に神の刻印を押された者は、世を襲う災いから神によって守られるということが示されます。エゼキエル書9章1節以下、特に4節で語られているのも、このことでしょう。

 また、「刻印」はギリシア語で「スフラギス」と言います。5章1節以下などで「封印」と訳されているのと同じ言葉です。

 ローマ書4章11節「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」という言葉の「印」が「スフラギス」です。また、第一コリント書9章2節「あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」では「証拠」と訳されています。

 また、「刻印を押す、封印する」という意味の「スフラギゾー」という動詞が、マタイ福音書27章66節、第二コリント書1章22節、エフェソ書1章13節、黙示録7章3,4,5,8節などにあります。

 これらの言葉遣いの中で、「神の刻印」と同様な表現として、第二コリント書1章22節、エフェソ書1章13節、4章30節に、聖霊で証印を押されるという表現があります。それは、アブラハムが信仰によって義とされた証しとして割礼という「印」を受けたように(ローマ書4章11節)、キリストを信じた者が救われて神のものとされ、新しい命が与えられた「印、証拠」を意味しています。

 第一コリント書12章13節に、一つの霊によって、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊を飲ませてもらったという言葉があります。キリストを信じてバプテスマ(洗礼)を受けた者たちは、聖霊によってキリストという一つの体になり、めいめいが聖霊を受けたということです。聖霊の証印を受けた者たちは、聖霊によってキリストの体という教会を形成するという表現でしょう。

 また、刻印を押された人の数は象徴的です。14万4千人はイスラエル12部族から選ばれました。12は完全数です。そして、キリストを信じる者の集い、つまりキリストの教会こそ、神によって選ばれたイスラエルなのです(ガラテヤ書3章26~29節、6章16節など)。

 そこに挙げられている部族名を読むと、笑ってしまいます。通常、レビ族(7節)が数えられることはありません。むしろ数えてはならないと言われていました。ヨセフ族(8節)があるのに、マナセ族(6節)が出るのは妙です。そして、ダン族がありません。

 これはしかし、単なる記憶違いではありません。士師記17,18章の影響だと思いますが、後期ユダヤ教の教えによれば、ダン族から反メシヤの頭が出て来ると考えられていたのです。

 そうしたことから、ヨハネがここに言う「イスラエル」というのが、正当なユダヤ民族に属する12部族というのではなく、主イエスを信じるすべての人々を「12部族」として、彼らこそ真の神の民イスラエルであると言い表しているわけです。

 1部族1万2千人ずつというのは、12の1000倍です。1000は完全数「10」の3乗です。つまり12も10も完全数なので、完全数に完全数の3乗を掛け合わせるということで、これは、考えられないほど大きな数という意味です。

 ですから、キリストを信じる者の中から、より忠実な信仰者14万4千人を厳選したというようなことでは、決してありません。むしろ、神の愛と憐れみから漏れる者は一人もいない、キリストを信じる者は皆、一人残らず神のしるしが与えられているという宣言です。

 だから、冒頭の言葉(9節)の「だれにも数え切れないほどの大群衆」というのが、刻印を押された14万4千人でしょう。この大群衆は「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった」と言われており、まさに、全世界のすべての主を信じる民、だれにも数え切れないほどの大群衆が、神と御子キリストの前に立っているというのです。

 また、「白い衣を身につけ」ていると記されています。それは、信仰の戦いを雄々しく戦って勝利を得た者であると、3章5節などに記されておりました。この人々のことについて、14節では「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言われています。

 大きな苦難とは、黙示録が書かれた当時、ローマ皇帝ドミティアヌスによる、キリスト教徒が味わっていた迫害の苦しみを指します。それはしかし、彼らが自分の力で戦いに耐え、勝利を得た、それにより白い衣を獲得したというのではありません。それは、「小羊の血で洗って白くした」と言われているからです。

 「小羊の血」と言えば、過越の出来事を思い起こします。それは、イスラエルの民がエジプトを脱出する際、エジプトに下された最大の災いでした。エジプト中の家の長子が神の御使いに打たれて亡くなりました。ただ、主なる神の命令に従い、小羊の血を家の柱と鴨居に塗っているところは、御使いがパスした、過ぎ越したというので、それを記念して過越祭を祝うのです(出エジプト記12章)。

 ということで、「小羊の血で洗って白くした」とは、小羊の血によって大きな災いから守られたという意味があります。ローマ皇帝による厳しい迫害という苦しみを味わっているキリスト信者が小羊の血で守られる、即ち主イエスが十字架に死なれ、そこで流された血潮によって救われただけでなく、その苦難の中で神に守られ支えられて、信仰を全うすることが出来るということです。

 白い衣を着た大群衆が大声で、「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」(10節)と叫び、天使たちが、「アーメン、賛美、栄光、知恵、感謝、誉、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように」(11,12節)と賛美したとありますが、信仰を全うして玉座の前で神を礼拝する群れに加わることが出来ると、ここに予め約束されているのです。

 この世には様々な苦難があります。なぜこのような苦しみを味わわなければならないかと思うことがあります。そういう中で、主イエス・キリストを信じる信仰に導かれているのは、それこそ主の恵みであり、神の祝福なのだとあらためて思います。

 ヨハネが様々な苦難の中で天上を仰ぎ、約束された神の守りを信じ、天使たちと共に凱歌を歌っているように、私たちも絶えず主を仰ぎ、日々御言葉に耳を傾け、常に聖霊の導きに従って前進しましょう。

 主よ、私たちがあなたを選んだのではありません。あなたが私たちを選ばれました。それは、私たちが行って実を結ぶため、その実がいつまでも残るため、そして、皆による祈りがかなえられるためだと言われました。あなたの御心を行うことが出来ますように。そして、御名の栄光を表すことが出来ますように。そのために必要な力と知恵、助けを聖霊をとおして絶えず与えてください。 アーメン