「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」 ヨハネの黙示録2章10節

 2,3章には、「アジア州にある七つの教会」(1章4節)に宛てた手紙が記されています。これは、ヨハネの指導している教会が七つあり、そして、「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(同11節)と命じられていました。

 ラオディキアのそばにコロサイの町があり、そこにも教会がありますが(コロサイ書参照)、それがここに数えられていないのは、ヨハネの指導する教会ではないからです。その点では、「エフェソにある教会」(1節)も、パウロの教会とは別のものと言ってよいでしょう。

 「七」は完全数で、これで全世界の教会を代表しているのではないかという節もありますが、それは上記の通り、コロサイが挙げられていないなど、問題があります。ヨハネにとって、アジア州の七つの教会が彼の指導するすべてであり、それでこの世における完全な教会を形成しているものと考えていたのでしょう。

 エフェソ、スミルナ、ペルガモンは地中海沿岸の港町で、南から順にその名が挙げられています。そして、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアは内陸部の町で、ペルガモンから南東にのびる街道沿いにあり、北から順に並べられています。

 パトモス島から一番近いところにエフェソがあり、ここから時計回りに七つの教会を巡ることが出来ます。七つの教会がこの順番に並べられているということは、本書がこの順序で回覧されることを念頭に置いているということでしょう。

 七つの教会に宛てて書かれる手紙には、共通の特徴があります。それは、最初に語り手の神の御子キリストのことが、様々な言葉で紹介されます。次いで「知っている」(2節など)という言葉で綴られる賞賛の言葉が記されます。

 次に「しかし、あなたに言うべきことがある」(4節など)と、叱責の言葉が述べられます。ただし、初めから二番目のスミルナと、終わりから二番目のフィラデルフィアには、叱責の言葉がありません。

 その次は、悔い改めを勧告する言葉です。ただ、スミルナには、苦難を恐れず、死に至るまで忠実であれと命じ(10節)、フィラデルフィアには、持っているものを固く守れと勧めています(3章11節)。

 そして、悔い改めないときの裁きの言葉が語られます。だから、スミルナとフィラデルフィアにはこれがありません。それから最後に、「勝利を得る者には」(7節など)で始まる祝福の約束が告げられます。

 これらのことから、黙示録において神が教会に望まれること、そして、神に裁かれないよう教会が避けるべきことを学ぶことが出来ます。

 冒頭の言葉(10節)は、「スミルナにある教会」(8節)に書き送られた手紙の一節です。スミルナはエーゲ海に面した港町で、現在はイズミルと呼ばれています。ギリシアの植民地として建設された後、リュディア王アリュアッテスによって滅ぼされたのを、紀元前290年頃、アレキサンダーの後継者リュシマコスにより現在の位置に再建されました。

 スミルナは、紀元前195年にローマの女神のための神殿を建設するなどローマに忠誠を尽しており、ローマが東部地中海沿岸で権力を持つ以前から忠実な同盟国としてその保護を受けていました。公共建築物、医学、科学などが栄え、小アジアで重要な、美しい商業都市の一つとなりました。現在でも、アジアの宝石と評されると聞いたことがあります。

 スミルナにある教会の信徒たちは、苦難と貧しさの中にいたと、9節に記されています。ローマ時代、多くのキリスト者は下級の貧しい階層に属していました。そして、ローマによる弾圧、異教徒による迫害などの苦しみを受けていました。

 黙示録が書かれた当時、ローマ帝国の皇帝ドミティアヌスは自分を神として拝むよう、帝国中で皇帝礼拝を強制していました。スミルナでも皇帝礼拝が盛んになされるようになっていました。そして、皇帝を拝まない者は不忠者として迫害されたのです。キリスト者にとって、大変な受難の時代が始まったわけです。

 パウロの時代には、上に立つ権威に従えといった勧めがなされていますが(ローマ書13章1節など)、黙示録でははっきりとローマ帝国、皇帝と戦う姿勢が打ち出されてきます。戦うといっても武器を取るというのではなく、帝国の命令に不服従、皇帝礼拝に加わらないという戦いです。

 そのため、厳しく迫害されたようです。にも拘らず、そのような弾圧の苦しみの中でも、スミルナ教会の人々は信仰を失うことはありませんでした。むしろ霊的に豊かであり、賞賛に値する信仰生活を守り通したのです。

 どのようにして、スミルナの人々は苦難と貧しさを克服することが出来たのでしょうか。それはまず、彼らの上に主イエスの目が注がれていたからです。9節に「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」と記されています。主が「知っている」と仰っているのです。私たちの苦しみ、悲しみ、困難な状況を、主が知っていてくださるのです。

 主はそれをどのように知られたというのでしょうか。それは、単なる情報としてではありません。8節に「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」と言われます。「最初の者にして、最後の者」というのは、初めから終わりまでずっとおられる方、歴史全体を支配しておられるお方ということです。歴史の支配者として、私たちのことを知っていてくださるのです。

 それだけではありません。「一度死んだが、また生きた方」です。肉体の死を味わわれ、そして甦られたのです。その死も、尋常なものではありませんでした。主イエスは、十字架で肉を裂き、血を流されました。イザヤ書53章3~5節の預言の通り、主イエスが御自分の体で私たちの痛みを負い、病を知られ、そして死なれたのです。

 私たちの苦難を知り、貧しさを知っておられる主イエスが、冒頭の言葉で「受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない」と語られました。「恐れてはいけない」というのは、私たちが苦難を恐れているからです。「恐れるな」というのは、聖書の中で繰り返し語られるメッセージです。

 「恐れてはいけない」と言われるのは、そう言われる主イエスが、常に私たちと共にいてくださるからです。怖がって泣いている子どもをあやす母親のような、不安で顔を覗き込む子どもたちの前で毅然としている父親のような、平安と希望をお与え下さる主イエスの言葉です。

 スミルナの教会は、信仰に堅く立って試練に立ち向かい、勝利することが出来ました。ドミティアヌスの時代に、教会は信徒の数を3倍にしたという記録もあるそうです。ということは、試練にじっと耐えた、じっと我慢の子であったということではありません。むしろ迫害に毅然と立ち向かい、大胆に主イエスの福音を告げ知らせたのです。

 ところで、スミルナとは没薬という意味です。没薬は、ミルラというカンラン科の潅木の樹幹から滲み出る黄色の樹液を乾燥させて作ります。できあがった没薬を砕き、磨り潰します。すると素晴らしい薫りを放つ没薬になるそうです。そして、良い香りを放つミルラの粉は、没薬として葬りのときに用いられます。

 これは、私たちのことを語っているのではないでしょうか。私たちの中に強い圧迫を感じている人、プレッシャーに押し潰されそうになっている人はいないでしょうか。粉々に打ち砕かれたように感じている人はいないでしょうか。あるいは、死に対する恐れのようなものを感じている人もいるかもしれません。

 なぜ、そのような苦しみを味わわなければならないのでしょうか。どうして神は、そこからすぐに救い出して下さらないのでしょうか。その理由のすべてを知ることは出来ませんが、一つ大切なこととして、私たちがよい香りを放つためであるということが示されます。

 第一ペトロ書5章6節に「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」という御言葉があります。神の強い腕で無理やり頭を抑えられるということです。しかし、それを神の御手の業と信じて、抵抗しないで自らを委ねましょう。神がその御手をもって私たちを高く挙げてくださるからです。

 主よ、黙示録の御言葉を通して、初代のキリスト者がどのような境遇におかれていたか、そこでいかに戦い、勝利したかを学ぶことが出来ます。私たちも主の御言葉に固く留まり、苦難を恐れず命の冠を授けられる勝利者とならせてください。 アーメン