「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、さらに、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」 ヨハネの黙示録1章4~5節

 今日からヨハネの黙示録を読み始めます。本書は、旧約聖書のダニエル書と同様、黙示文学と呼ばれる文学形式や思想的内容を持っています。「黙示」とは、「啓示」(アポカリュプシス)という言葉で、神の力によって隠されていたものが露わにされることです。本書は「キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったもの」(1節)です。

 著者は「僕ヨハネ」と自己紹介しています。ヨハネ福音書にも第一から第三のヨハネの手紙にも、署名はありませんでした。福音書や手紙は誤りのないギリシア語で記されているのに対し、黙示録は文章が粗野で文法違反が多々あること、およそ同一人物の著述では有り得ないと言わざるを得ません。

 本書の著者は、小アジアにある七つの教会で指導的な立場にいる預言者です(4節)。その言葉遣いから、ユダヤ人キリスト者でパレスティナ出身の人物でしょう。聖書学者の佐竹明先生は「ヨハネ」は本名だろうと言われました。

 本書が書かれたのは、ローマ皇帝ドミティアヌスの統治時代(紀元81~95年)の終わり頃であったと、イレナエウスの著書『異端者たちへの反論』に記しています。帝国中のすべての民に皇帝礼拝を要求したのはドミティアヌスが最初でしたが、ヨハネは激しく圧迫されている小アジアの諸教会に宛てて、慰めと警告の言葉としてのメッセージを書き送ったのです。

 黙示録の中に「幸い」(マカリオス)という言葉が7回出て来ます(1章3節、14章13節、16章15節、19章9節、20章6節、22章7,14節)。それは、神の祝福は完全だという表現でしょう。

 言い換えれば、私たちはこの神の宣言される「幸いなるかな」という祝福の宣言を聞くために、本書を朗読し、その中に書かれていることを守り行うのです。不従順によって「災い」(黙示録中に16回)を刈り取るのではなく、真理に従って祝福と力を頂きましょう。

 あらためて1節に「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」と記されています。

 本書は、この表題にも拘らず、ずっと誤解されてきました。最大の誤解は、これが遠い未来の終末を見通して預言した書物であるという誤解です。ヨハネは非常に近い未来、「すぐにも起こるはずのこと」というキリストの啓示を天使から受けたと言っているのです。

 上述のとおり、本書の執筆当時、ローマ皇帝ドミティアヌスが帝国中で皇帝礼拝を強制していました。キリスト教徒は皇帝を神として礼拝することを拒否して、大変厳しい迫害を受けていました。男性は処刑され、女性はアフロディテの神殿で娼婦として売春を強要され、子どもは奴隷に売られるという酷い目に遭わされたようです。

 そのような時代に、最後に神が勝利を取られるという信仰のメッセージを伝えて、迫害下にある信徒たちを励まそうとしているのです。

 2節に「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」とあります。「神の言葉とイエス・キリストの証し」とは、ヨハネに伝えられた啓示の内容を示しているとも考えられますが、神の語られた言葉がイエス・キリストにおいて実現した、神の言葉をキリストが証明されたとも解釈出来ます(ルカ福音書1章20,45節、イザヤ書55章11節)。

 主イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(ヨハネ福音書18章37節)と言われましたが、その証しをこの世は受け入れず(同1章1節)、十字架につけられました(同19章17節)。けれども、三日目に死を打ち破って甦られたのです(同20章9節など)。

 十字架にかかられる前、主イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(同16章33節)と仰っていました。世に勝ち、罪と死に打ち勝たれたこの主イエスをあらためて思い起こし、信仰を最後まで固く守ろうと励ましているわけです。

 冒頭の言葉(4,5節)のギリシア語原文は、「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」と言ったあとに「恵みと平和があなたがたにあるように」と語られ、それから「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、その御座の前の七つの霊から」と記されています。ここまでが4節です。

 そして5節に「更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから」となっています。このままではあまりに直訳的なので、4節と5節をあわせて、新共同訳にあるような訳文になっているわけです。

 ここで「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(4節)とは、黙示録において父なる神のことを言い表したものです(8節、4章8節など参照)。これは、出エジプト記3章14節の「わたしはある」という言葉を展開したもので、神が過去、現在、未来に存在されるということと共に、不動不変というのではなく、働き続けておられるお方であるという宣言です。

 「七つの霊」とは、「7」が完全数であることから、完全な神の霊、つまり聖霊を指しているものと考えられます(4章5節参照)。また、7という数字で、聖霊の働きの多様さ、あるいは教会に与えられた聖霊の賜物の完全さ、また教会に聖霊が満ちている有様を示しているとも考えられます(5章6節も参照)。

 そして、「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」として、イエス・キリストを紹介します。主イエスは、再臨によって、神が「やがて来られる方」であることを見える形で具現されます。

 また、「(小羊の)七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」という5章6節の表現で、完全な神の霊とはキリストの霊であることを示します。こうして、ヨハネは絵心たっぷりに三位一体の神を描き出しています。

 ヨハネは黙示録が私たちに祝福を告げる書であることを、その初めから示しているわけです。これらのことを心に留めて冒頭の言葉を言い換えてみれば、「ヨハネから、全世界の主にある教会へ。父なる神と、玉座の前におられる聖霊と、真実な預言者、祭司、王として君臨されるイエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」という祝祷になります。

 あらためて、三位一体なる神の恵みをいつもどのように感じているだろう、味わっているだろうと思いました。神はありとあらゆる方法を通して、私を祝福しようとしてくださっています。

 それは、楽しいこと、嬉しいことばかりではないでしょう。しかし、どんなときにも主を仰ぎ、主の祝福を信じたいと思います。今の苦しみも主の恵みに変えられる、いえ、苦しみも主の恵みのうちと信じることが出来れば、本当に幸いです。

 主よ、私たちに真実な助け主として主イエスをお遣わしくださり、さらに、聖霊をお遣わしくださって、私たちの信仰を導き助けていてくださることを感謝します。すぐに御言葉に背いてあなたの愛から離れようとする私たちです。日々御言葉を聴き、御旨に従う幸いを絶えず味わわせてください。 アーメン