「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」 ヨハネの手紙一3章12節

 3章は、「考えなさい」という言葉で始まります。これは「見なさい」(イデテ:behold)という言葉です。何を見るのかといえば、それは私たちを父なる神がどれほど愛してくださっているかということです。神が私たちを愛されたのは、私たちが神の子と呼ばれるためです。

 キリスト者には、神の子という名前だけでなく、神の子としての本質が与えられました。だから、「事実また、そのとおりです」(1節)というのです。それは、霊的に神の子どもとして生まれたということです(ヨハネ福音書3章3,5,6節、同1章12節も参照)。

 ただ、神の子とされてはいますが、また最終段階に至ってはいません。「子」は「フイオス(son:息子)」ではなく「テクナ(children:子どもたち)」です。成人した神の息子ではなく、神の幼子といった表現です(ヨハネ福音書1章12節も同様)。

 主イエスの再臨後、キリストと同じ栄光の姿に変えられ、ありのままの御子キリストの姿を見ると言われます(2節)。これは、現在神を見ることが許されていない私たちが、初めて御子キリストの真の栄光の姿を見ることのできる者に変えられるということでしょう。

 キリストの再臨の日が私たちの救いの完成の日となり、栄光のキリストと相見えるというのが、キリスト者の希望であり、その希望を持つ者は「御子が清いように、自分を清めます」(3節)と言われています。

 この言葉は、「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」(マタイ福音書5章8節)、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(同5章44節、第一ペトロ書1章15節なども参照)という言葉を思い出させます。即ち、成人した、完全な神の子となれということでしょう。 

 自分を清める根拠として、4節以下に罪の問題を取り上げます。「御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません」(5節)と告げ、「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません」(6節)と言います。

 「いつもいる」は2章にもあった「とどまる」(メノー)という言葉です。キリストが罪なき方であるから、キリストの内に留まる者も罪を犯さない、罪を犯すはずがないというのです。キリストに留まる者は、キリストと絶えず結びついているからです。

 それに対して、「罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません」(6節後半)と言われます。罪を犯すのは、キリストと結びついておらず、キリストの内に留まっていないからで、それは、キリストの言葉を本当に聴いたことがないということ、神から生まれたものではなく、悪魔に属する者であることを示しているのです(8節)。

 10節で神の子と悪魔の子を対比させ、正しい生活をしない者は皆、神に属していないと言い、さらに、「自分の兄弟を愛さない者も同様です」と言います。主イエスの「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節)という命令を守らないことが、正しい生活をしない悪魔の子の欠陥を何よりも明らかに示すものだからです。
 
 冒頭の言葉(12節)に、「カインのようになってはなりません」と書かれています。カインというのは、創世記4章に出てくる、最初の人アダムとその妻エバの初子、長男です。カインには弟がいました。名はアベルと言います。カインは土を耕す農夫となり、アベルは羊を飼う牧夫となりました。

 やがて献げ物を献げる時となり、カインは土地の実りを、アベルは肥えた子羊を献げました。ところが、神は弟アベルの献げ物に目を留められましたが、カインの献げ物は顧みられませんでした。激しく怒ったカインは、アベルを殺してしまいます。それをヨハネは、「彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました」(12節)と記します。 

 神がカインに、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口をあけて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を生み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(創世記4章10~12節)という裁きの言葉を告げられました。

 それで、カインは主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだと記されています(同16節)。ノドとは「さすらい」という意味です。イスラエルの東方にはアラビアの裁くが広がっています。そこをさすらうのは、死と隣り合わせの危険な生活を余儀なくされるということです。

 ここから題材をとって、有島武郎が「カインの末裔」という短編小説で、貧しい農夫という主人公の、神に見放された人間としての苦悩を描いています。有島は、資産家で大蔵省の役人を父に持つ裕福な家庭で育ちました。しかし、自分は神の愛を必要としながら、神に背いてさすらいの人生を生きているカインの末裔であり、そして、誰もがカインの末裔なのではないかと言おうとしたのでしょう。

 カインのようになってはいけないと言われますが、カインのようになりたいと思って努力する人はいないでしょう。それなのに、誰もがカインのようになってしまう、あるいはカインのように生きていると、ヨハネも考えているのではないでしょうか。愛し合って生きるべきだと思っているのに、そう出来ずに、むしろ憎み合ってしまいます。

 パウロが、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ書7章19,20節)と語っているのは、このことでしょう。あなたもわたしも、確かにカインの末裔だと思います。

 それに対して、アベルは、カインに殺された弟です。神がカインに弟アベルのことを尋ねて、カインの罪を指摘されるとき、「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(創世記4章10節)と言われました。

 このとき、アベルの血は何と叫んでいたのでしょうか。創世記4章11節に「今、お前(カイン)は呪われる者となった。お前が流した弟(アベル)の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる」と記していました。その言葉から考えると、アベルが兄カインを呪って「恨めしや、この恨み晴らさでおくべきか」と叫んでいるように思われます。

 そして、恨みを抱えたまま、その霊が土の中をさまよい、その血が呪いの言葉を叫び続けているというのであれば、弟アベルもまた、神の祝福から離れてさすらう兄カインの末裔の一人と言わざるを得ません。

 しかしながら、ヘブライ人への手紙11章4節に「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」と記されています。ここで、信仰によって何と語っていると考えたらよいのでしょうか。「信仰によって」という言葉の用いられ方からすれば、それは恨み言や呪いの言葉ではなく、神をたたえる賛美や感謝の言葉であろうと想像されます。

 何ゆえの賛美、感謝でしょうか。それは、第一には、彼の献げ物を認めてくださったことであろうと思われます。しかし、彼が恨み言、呪いの言葉を叫んだのは、献げ物が認められたのを兄に妬まれて、殺されるという、言われなき苦しみを受けたからです。どこで恨み言、呪いの言葉が賛美となったのでしょうか。

 その答えがヘブライ書12章24節にありました。そこに「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血」という御言葉があります。「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」とは、主イエスが十字架で流された血潮のことです。

 主イエスの血が語るのは、恨み言や呪いではありません。それは、罪の赦すという宣言であり、そして私たちを愛するという祝福の言葉です。だから、キリストの血が流されたことによって、すべての呪いが祝福に変えられたということでしょう。アベルの呪い、恨み言も、キリストの血によって祝福に変えて頂いたのです。つまり、キリストの贖いのゆえに感謝と賛美を語り続けているのです。

 私たちも、呪いを祝福に変えていただくことが出来ます。それは、16節にあるとおり、私たちのために命を捨ててくださった主を信じ、その愛を知ることです。23節でも「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」と説いています。

 ここに、主イエスを信じる信仰と兄弟愛の実践が結び付けられています。これは、最も重要な掟として、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ福音書22章37節、申命記6章5節)と、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ福音書22章39節、レビ記19章18節)とが、聖書全体を支えていると教えられたことと符合しているようです。

 主イエスの愛と憐れみによって贖われ、罪赦された者は、主を信じ、主を愛そうとするでしょう。そして、主を信じ、主を愛そうとする者は、隣り人を愛する愛に生きよと命じられているのです。憎み合い、妬み合い、恨み合うことをやめて、祝福し合い、愛し合い、励まし合い、支え合って生きる道が開かれたのです。

 この時代、、互いに愛し合うことによって、私たちは主イエスの福音を世の中の人々に、もっと力強く証しして行かなければならないと思わされます。アベルの末裔として、神をほめたたえつつ、キリストの愛と恵みを証しし続けましょう。

 主よ、私たちはあなたを離れて、実を結ぶことが出来ません。私たちの内に、命の光がないからです。主を信じて愛の実、喜びの実、平和の実を豊かに結ぶことが出来るよう、常に主の内に留まり、その御言葉に従って互いに愛し合う者としてください。それによって、主を証しすることが出来ますように。 アーメン