「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたがすでに聞いたこのとある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。」 ヨハネの手紙一2章7,8節

 1章で語られていた「交わり」について、2章では「神を知っている」(3,4,14節)、「神の内にいる」(5節)「神の内にいつもいる」(6,24節)、「いつも光の中におり」(10節)、「神の言葉があなたがたの内にいつもあり」(14節)、「御父に結ばれている」(23節)、「御子の内にとどまる」(27,28節)という表現で語っています。

 ここで、「いつもいる」(6,10,14,24節)、「とどまる」(27,28節)の原語は「メノー」というギリシア語です。これは新約聖書の中で112回用いられています。その内、ヨハネ福音書に38回、ヨハネの手紙一に23回、ヨハネの手紙二に3回、ヨハネ黙示録に1回使用されていて、全体の半数以上がヨハネによって用いられていることが分かります。

 ヨハネがこれだけ、「留まる」(メノー)という言葉を用いている背景には、当時多くの人々の心を捉えたグノーシスと呼ばれる思想があります。より深い霊的な知識を得ようとして、主イエスの教えから離れる人々が出てきたのです。

 また、深い霊的な知識を得たと主張する人々は、そのような知識に到達していない人々を、レベルの低い者と考えて差別していました。ヨハネは、偽りの教えに惑わされないよう、「神を知れ、神の掟を守れ、神の内にいつもいなさい、主イエスにとどまりなさい」と語っているのです。

 私たちはかつて、主イエスを知らず、主イエスから離れて、罪の中に生きていました。けれども、今私たちは主を知る者になりました。「神を知る」とは、神についての知識があるという意味ではありません。御父と御子イエス・キリスとの人格的な交わりがあることを(1章3節)、「神を知っている」と言います。

 黙示録3章20節にあるとおり、主イエスが私たちの心の扉を叩いて、天の御父と御子イエス・キリストとの交わりに招いてくださいました。それは、食事を共にするという親しい交わりです。主イエスが私たちの心の中に入ってこられ、そこに住まわれました。主イエスと、心と心でつながったわけです。

 1節後半に「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」と記されています。ここに主イエスについて、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」と紹介しています。

 「弁護者」は、罪人の傍らに立ち、法律を用いて罪人を弁護します。キリストは、私たちの罪を自分の身に負い、私たちに代わって償ってくださいました(2節、1章7節)。それによって、私たちを罪に定める証書を破棄し(コロサイ書2章14節)、無罪を主張してくださるのです。ここに、神の愛があります(4章9,10節)。

 「弁護者」というのは、原語で「パラクレートス」と言います。これは、「パラ(傍らに)」+「クレートス(呼ばれた者)」という言葉で、口語訳では「助け主」と訳していました。主イエスが、私たちの傍らにいて助けてくださる弁護者だということです。罪人の私たちのために、神は弁護者としてイエス・キリスト」を私たちの傍らに遣わしてくださったのです。

 また、「慰め主」と訳されることもあります。どのような悲しみの中にいても、その傍らに慰め主なるお方がおられます。そのお方が私たちを御傍に呼んで慰めてくださるのです。

 ここでちょっと寄り道。ヨハネ福音書14章16節に「別の弁護者(アロス・パラクレートス)」という言葉があります。別の弁護者とは、「真理の霊」(同17節、15章26節)、また「聖霊」(14章26節)を指しています。

 主イエス・キリストが「御父」のもとから最初に遣わされて来た弁護者ですが、天に上って神の右の座に着かれた後、「御父」は「別の弁護者」として、真理の御霊、聖霊をお遣わしくださったのです。いずれも「弁護者」というのですから、役割は同じということになります。

 真理の御霊なる「別の弁護者」は、私たちにすべてのことを教え、キリストが話したことをことごとく思い起こさせてくださいます(同14章26節)。聖書はすべて、神の霊の導きの下に書かれました(第二テモテ書3章16節)。

 使徒言行録2章38節に「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と約束されています。主イエスを信じてバプテスマを受けた私たち、主イエスに結ばれた私たちには、真理の御霊、聖霊が与えられているのです。

 聖霊は、私たちと共におられ、私たちの内に住まわれて(ヨハネ福音書14章17節)、「恵みの賜物(カリスマ)」をお与えくださいます(第一コリント書12章1節以下)。その最も大きな賜物として「愛」が与えられます(同31節以下)。ローマ書5章5節にも「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とあります。

 冒頭の言葉(7,8節)は、禅問答のような言葉です。「わたしが書いているのは、新しい掟ではなく、古い掟です」と言ったあとで、「しかし、わたしは新しい掟として書いています」と語ります。これはどういうことなのでしょうか。考えて見ましょう。

 まず、「古い掟」とは何のことでしょうか。それは十戒など旧約の律法のことではありません。主イエスが「新しい掟」(ヨハネ福音書13章34節)としてお与えになったもので、それは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(同34節)という命令です。

 それをなぜ「古い掟」と言ったのかといえば、主イエスがこの命令を「新しい掟」として語られたときから既にある程度、時間が経過して来ているからです。「あなたがたが初めから受けていた」とは、手紙の読者が信仰に入ったときから聞いていたということです。だから、「新しい掟ではなく、あなたがたは初めから受けていた古い掟です」(7節)というわけです。

 であれば、8節で「新しい掟として書いている」というのは、どういうことなのでしょうか。二つのことが考えられます。一つは、これは初めから聞いていた命令で、今初めて語られたわけではないけれども、あらためて今聞くべき掟、従うべき言葉として命じられるということです。主イエスの御言葉が過去のものとされてはいけない、常に新しく聞き直す必要があるということです。

 もう一つは、主イエスが「新しい掟」と語られたのは、今までになかった新しい教え、命令という意味ではなかったのではないでしょうか。家族同士、兄弟姉妹が互いに愛し合うということは、命じられるまでもなく当然だとも考えることが出来ます。

 そこで主イエスが語られた「新しさ」とは、人間が互いに愛し合う愛を超えた、神が私たちに示される愛について語っているのです。神は御子キリストを世に遣わされました。しかも、私たちの罪を償ういけにえとして御子を遣わしてくださったことで、神は私たちへの愛を示されたのです(4章9,10節参照)。

 既にキリストの贖いの業は成し遂げられました。だから、8節後半で「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」と言われています。そのようにして、神の愛を受けて互いに愛し合う新しい道を開かれたのです。

 しかしながら、私たちが自分の力で、主イエスが私たちを愛してくださった神の愛で互いに愛し合うことなど出来ません。絶えず主の愛を受けて、主の愛に支えられて、御霊の導きによって愛し合うということです。

 それが1章で語られていた「わたしたちとの交わりを持つ」こと、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」に与ることです。御言葉を聴き、御言葉に留まるとき、真のぶどうの木なる主イエスの命の恵みに与り、愛の実を結ぶことが出来るのです。

 主イエスは、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ福音書13章35節)と言われました。私たちも主につながり、御言葉に留まって互いに愛し合う愛の実を結ぶというしるしをもって、主を証しする者とならせていただきましょう。

 主よ、罪によって敵対していた私たちを、無限の愛をもって愛してくださいました。私たちが神の子とされるため、どれほどの愛をいただいたか、いつも覚えさせてください。その恵みを思いつつ、互いに愛し合えと命じられた神の愛に生きることが出来るよう、私たちを聖霊で満たし、私たちの心に神の愛を注ぎ続けてください。 アーメン