「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないで下さい。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」 ヘブライ人への手紙13章15,16節

 新共同訳聖書は13章に「神に喜ばれる奉仕」という小見出しがつけられています。ここには、人に親切にすること、結婚生活を重んじること、貪欲を避け、自分の持っているもので満足することなど、私たちが心して実行すべき生活の指針が羅列されています。

 4節以下に性欲と金銭欲の問題を取り上げています。性と金銭の問題を正しく管理しなければ、神に喜ばれないということです。4節に「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません、神は、淫らな者や姦淫する者を裁かれるのです」と記されていることから、当時の人々の間に、性的な混乱がいかに重大な問題であったかということを知ることが出来ます。

 10章22節に「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています」と語られているように、神の家を支配する偉大な祭司キリスト・イエスの血によって私たちの心と体が清められています。ですから、不品行や姦淫は、たんに夫婦の問題などではなくて、キリストの贖いの業を汚す行為であるということになります。

 だからこそ、「わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません」(10章26節、6章4~8節も参照)と言われるのであり、神の裁きを免れないわけです。神が、夫婦の関係を大切にせよと言われていることに心を留めるべきです。

 金銭欲も、それに負けず劣らずの大きな問題です。5節後半に「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」という言葉が記されています。これは、申命記31章6,8節からの引用です。6節に「主はわたしの助け手、わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」と記されています。これは、ギリシア語訳(70人訳)詩編118編6節からの引用です。

 これらの言葉と「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」という勧めの御言葉は、どのように結びついているのでしょうか。「決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」という神の約束に信頼する心と、「金銭に執着する生活」が対比されていると考えればよいでしょう。

 つまり、神への信頼に立っていれば、金銭に執着する生活にはならないということです。金銭に執着するということは、自分の生活の基盤を「金銭」に代表される、目に見え、手で触れられる、形あるものの上に据えたいと考えているということです。

 形あるもので生活を保証したいと思うならば、より多くのものを手に入れたいとも思うでしょう。それが、「金銭に執着する」ということになるわけで、だから、「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て」(第一テモテ書6章10節)と言われ、また、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ書3章5節)と告げられるわけです。

 それに対して、神が私たちの手をしっかり握って放さない、神は私たちを愛していてくださるという約束に信頼を置いているならば、6節の御言葉のとおり、あらゆる不安や恐れから解放されて、「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」と、堂々と語ることが出来るでしょう。

 勿論、私たちは小さい存在です。常に、また完全に主を信頼するというところに立ち切れません。大風が吹けば、足元が揺らぎます。心はすぐに恐れと不安に満たされます。「神様、助けてください」と叫び声を挙げます。

 しかし、私たちが神の手をつかんでいるのではなく、神が私たちの手を握っていてくださいます。怯えて泣いている私たちの傍らにいて、背をさすり、頭をなで、「畏れるな、平安があなたにあるように」と声をかけてくださるのです。その御手に触れ、その御声を聴きながら、日々を歩ませていただいています。

 そして、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(8節)。どんなときでも変わらずに、私たちを愛し、守っていてくださる方であると言われているわけです。

 そして、冒頭の言葉(15,16節)に目を留めてください。「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないで下さい。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」と記されています。

 神に喜ばれるいけにえのひとつは、「賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実」です。賛美すること、御名をほめ歌うことが求められます。それを「絶えず神に献げましょう」と言います。ポイントは「絶えず」というところです。勿論24時間いつも歌ってばかりはいられないでしょう。それに、歌えない、歌いたくない気分のときもあります。

 以前、お彼岸に仏壇に供える梨を売っているという話を聞きました。「仏様用なし」と書いてあって、他の梨と比べてずいぶん安いので、店の人に尋ねると、全然美味しくないそうです。それでも見た目は変わらないから、仏様に上げようということに。それ、仏様は喜ぶのでしょうか? そういえば、「仏様用なし」は、「仏様、用なし」と読めます。

 私たちの主イエス様には、最もよいものを献げたいと思います。歌えないとき、歌いたくない気分のときも。私たちは気分で神を信じ、気分で礼拝しているわけではありません。神様にそのときどき、歌えないような気分のときにも、歌えないほどの苦しみ、悲しみの中でも、その中で最もよいものを神に献げたいのです。

 だからこそ、「賛美のいけにえ」というのではないかと思います。いけにえとは犠牲です。犠牲を払うのは、痛みを伴うものです。痛みなしの犠牲などありません。痛みがあるから賛美が献げられないというのではなく、痛みの中でも犠牲を払ってその時自分が持っている最高のものを神に献げる、それが「賛美のいけにえ」です。

 もう一つのいけにえが、16節の「善い行いと施し」です。「施し」の原語は「コイノニア」で、「分かち合い、交わり」という言葉です。主イエスが山上の説教(マタイ福音書5~7章)の中で、「人前で善行をしないように注意しなさい」(同6章1節)と教えられましたが。そこで取り上げられた善行の一つが、「施しをする」(2節)ことでした。

 施しをすることは、旧約から一貫して奨励されているところです(申命記10章17節以下、イザヤ書1章17節など)。これが神に喜ばれるいけにえであると言われ、犠牲を払って行いなさいと私たちに命じられていることなのです。

 施しという言葉が、分かち合い、交わりという意味であることを心に留めて、どのような人とも真実に交わることが出来るように、助け合い、支え合うことが出来るようになりたいと思います。その鍵言葉は、相手の立場に立つということです。

 相手の立場に立つことを漢字一文字で「恕(じょ)」と言います。この文字の訓読みは「恕(ゆる)す」です。相手の立場に立って物事を考え、判断する、すべてを許し受け入れる、その精神に生きることが、今ここに求められています。私たちが真実に交わり、助け合い、支え合うことを、神が喜ばれるのです。

 7節に「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」と言われています。この書簡が書かれたのは、紀元80年前後と考えられています。それは、キリスト教徒を最も激しく弾圧迫害したドミティアヌス皇帝が君臨していた時代です。

 パウロやペトロといった指導者から、その後を担う人々も次々と殉教していった時代です。その殉教者の筆頭は、主イエス・キリストです。この「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(8節)。その最期を思い、また主の僕たちの最期を思い、その信仰に倣えと勧められます。

 主なる神は、その信仰の恵みと喜びを味わうように、その信仰に生きるように、私たちを招いておられるのです。主の助けと導きを頂きながら、精一杯、主の喜ばれる奉仕、信仰のいけにえを絶えず御前に献げさせていただきましょう。

 主よ、私たちに御子キリストの命をお与えくださり、永遠の御国に生きる希望と喜びを与えていてくださることを感謝します。御言葉に信頼して歩む私たちの手を取り、導き守ってくださる恵みを感謝します。たえず、唇の実、賛美のいけにえと、施しという善行のいけにえを、御前に献げさせてください。隣人との真実な交わり、助け合い、支え合うことを学ばせてください。御名が崇られますように。 アーメン