「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」 ヘブライ人への手紙12章2節


 1節に、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあります。「忍耐強く」(ディ・フポモネー)という言葉から、この競争が短距離ではなく、長距離、マラソンのようなものであると想像されます。その際、この競技に参加する者に求められるのは、走り抜くこと、完走することです。

 だれが競争相手かというのではなく、自分自身との戦いといいますか、完走を妨げようとするものとの戦いです。だから、「気力を失い疲れ果ててしまわないように」(3節)というのです。2,3節にも「耐え忍ぶ」(フポメノー)という言葉が繰り返し用いられているということは、様々な困難が完走を妨げ、気力を失わせようとするということです。

 それに対して、その様々な困難が襲ってきたときに、それを、父が子を愛するために行う「鍛錬」(パイデイア)と考えるようにと勧めます。

 7節で「あなたがたは、これを鍛錬として(エイス・パイデイア)忍耐しなさい(フポモネー)。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない(ウー・パイデウオー)子があるでしょうか」と語られているのはそのことです。

 その根拠として5~6節に、「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」という、箴言3章11,12節の御言葉を引用します。

 つまり、競技の途中に襲ってくる困難は、競争を妨げるものというより、私たちが完走出来るように私たちを鍛錬する神の愛の表現と考えて忍耐せよというわけです。「十字架なしに栄冠なし」(17世紀に信教の自由のために戦ったウィリアム・ペン)「逆境に勝る教育なし」(19世紀の英国首相ディズレーリ)という言葉もあります。

 自分に定められた競争で完走するためのポイントは、冒頭の言葉(2節)の「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」というところです。これは、信仰生活の初めから完成まで、主イエスが導いてくださるということです。そして、主イエスこそ「御自分に対する罪人たちの反抗を忍耐された方」で、どんな困難も乗り越えさせてくださるお方なのです(第一コリント10章13節参照)。

 「信仰の創始者」というのですから、信仰生活にスタートがあるのです。そして「完成者」というのですから、ゴールもあるのです。信仰生活のスタートとゴールの間は、めいめいが自分の思い通りに走ってよいということではありません。「イエスを見つめながら」と言われているからです。

 新改訳聖書では「イエスから目を離さないでいなさい」と訳されていました。信仰を始め、完成させてくださる主イエスから目を離してはいけないということです。実際、イエスから目を離させるものが一杯あるわけです。目を離すと、ゴールを見失ってしまうということです。

 これは、ボート競技のようだと思います。エイトと呼ばれる競技には、、漕ぎ手が8人乗ります。漕ぎ手はゴールを背に、後ろ向きに座ります。即ち、彼らはゴールするまで、ずっとスタート地点を見ていることになります。それによって、スタート地点から直線で進んでいるかどうか、分かるわけです。

 けれども、スタートから直線で進んでいるからといって、ゴールを目指していることにはなりません。正しくゴールに向かって進んでいるのでなければ、漕ぎ手がが頑張れば頑張るほど、ゴールから遠ざかってしまいます。

 エイトには、一人ゴールをまっすぐ見ているコックス(操舵手)と呼ばれるリーダーがいます。コックスの指導によって、ゴールを目指すのです。漕ぎ手がスタート地点を見ながら全力で漕ぎ、コックスがそれをゴールに導くわけです。

 私たちの競争で言えば、漕ぎ手は私たちキリスト教会の信徒=クリスチャンであり、コックスは導き手なる主イエスです。主イエスを信じる信仰を通して、主の御言葉により、私たちの信仰は完成へと導かれるわけです。

 ここで必要なのは、導き手に対する信頼です。コックスが信頼できなければ、全力で漕げません。息が乱れれば、ボートはまっすぐに進みません。けれども、息が合って全力でゴールを目指している姿を見るのは感動です。競技者は息が合う快感を味わうために、そのしんどい競技に参加しているのです。

 どんな時にも主イエスに信頼し、主イエスに目を注ぐことが出来るのは、聖霊の導きがあるからです。使徒言行録2章25節に、「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」とあります。これは、詩編16編8節からの引用です。ダビデが主イエスを見ることが出来たのは、聖霊の助け以外に考えることが出来ません。

 正確には、ダビデが主を見ていたのではなく、ダビデが主から見られていたのです。だから、どんな危機からも救い出されたのです。主がダビデの右にいて、彼が動じないでいられるように、支えておられたのです。それが、「弁護者」(パラクレートス)として傍らにいて慰めを与え、励ましを与えてくださる聖霊の働きなのです。

 どのような競技であれ、完走する体力をつけるためには、常日頃、様々な鍛錬を必要としています。一見、これがなんの役に立つのかと思うようなこともあるかもしれません。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしい門ではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(12節)というとおりです。

 自分を鍛えるコーチを鬼と思い、「きっと自分のことが嫌いなんだ」と結論することもあるでしょう。けれども、その苦しみが喜びに変わる瞬間が来ると、今まで鬼と思い、憎しみにも似た感情を持っていた相手に、どんなに感謝するでしょうか。その喜びと感謝を味わうために、その日まで、頑張ろうと励ましているのです。

 私たちが主イエスと出会い、救われた原点を絶えず見つめ、主イエスの導きに従い、天の御国目指して、ともに助け合い、励まし合って、信仰の馳せ場を走り抜きましょう。

 主よ、悲しいとしか思えない現実の中に閉じ込められていると思い、主がどこにおられるのかと疑うこともあります。しかし、困難を通して神を見出したとき、その意味を理解することができます。どうか、今その困難の中におられる方々にあなたの慰めと平安、励ましをお与えください。そして、義という平和に満ちた実を結ばせてください。 アーメン