「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」 ヘブライ人への手紙11章6節
新共同訳聖書は11章全体を一つの段落として、「信仰」という小見出しをつけています。
1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。この言葉を聴いて、何を思いますか。私はこれまで、自分の信念をしっかり持てば、望んでいることはなんでも実現すると解釈していました。実現しないのは、自分の信念が弱いから、疑いながら信ずるからだと考えていたわけです。
確かに、信念をしっかり持って最後まで励むなら、実現出来ないことはないかも知れません。少々問題が起こったくらいで信念が揺らぐようなら、何もなし得ないでしょう。だから、何事でもはっきりと目標を定め、実現した姿を思い描いて積極的に進もう、否定的な言葉は口にすまいということになります。いわゆる積極思考、肯定的思考ということです。
こうした考え方が間違っているとは思いません。むしろ、この世で何かを成し遂げた人々は、多少なりともこのような考え方を持っておられたことでしょう。ただ、1節の御言葉は、そのような「信念」について語っているのではなく、「信仰」を語っているのです。
信仰の対象は、私たちが実現を望んでいる「事柄」や、その実現を目にしていない「事実」などではありません。私たちの信仰の対象は、主なる神であり、神の独り子イエス・キリストです。ヨハネ福音書14章1節に「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と主イエスが語られています。
であれば、「望んでいる事柄」というのは、主ご自身が望んでおられる事柄ということになるのではないでしょうか。すると、その実現を約束された主なる神の御言葉を信じなさい、まだ実現していなくても、時が来れば実現する神の御言葉を信じて祈り待ちなさいということになりますね。
著者がここで語っている、イエス・キリストを信じる信仰において「望んでいる事柄」、「まだ見ていない事実」というのは、私たちの救いの完成のためにキリストが再臨されることであり(9章28節)、天の故郷に迎え入れられることです(16節)。
私たちがキリストの再臨を待ち望むのは、それによって私たちの救いが完成されて神の子として御国に迎えられ、主なる神と相見えること、主と親しく交わることが出来るからです。神はそのような信仰を喜ばれます。
それが、冒頭の言葉(6節)で語られています。神が喜ばれるのは、「神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であること」を信じる信仰です。神は、自分の願望の実現を求める者たちにではなく、神ご自身を求める者たちに報いてくださるお方なのです。
無論、私たちは自分たちの願いの実現を求めて神に祈ります。願いを適えていただきたいと求めます。そのときに、私たちが実現を疑わずに願うから、真剣に熱心に願うから、それが適えられるということではないのです。繰り返しますが、神が喜ばれるのは、私たちが神ご自身を求めて神に近づくこと、わたしたちに良いものをお与えくださる神を信頼することです。
主イエスが祈りについて、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」と語られました(マタイ福音書6章7,8節)。
だから、祈らなくて良いということではありません。そうではなく、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同6章33節)ということです。私たちの必要をことごとくご存知の主を信頼して自分の願いや問題を明け渡し、その主との交わりを喜び、楽しむことをまず求めよと言われているのです。
1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。この言葉を聴いて、何を思いますか。私はこれまで、自分の信念をしっかり持てば、望んでいることはなんでも実現すると解釈していました。実現しないのは、自分の信念が弱いから、疑いながら信ずるからだと考えていたわけです。
確かに、信念をしっかり持って最後まで励むなら、実現出来ないことはないかも知れません。少々問題が起こったくらいで信念が揺らぐようなら、何もなし得ないでしょう。だから、何事でもはっきりと目標を定め、実現した姿を思い描いて積極的に進もう、否定的な言葉は口にすまいということになります。いわゆる積極思考、肯定的思考ということです。
こうした考え方が間違っているとは思いません。むしろ、この世で何かを成し遂げた人々は、多少なりともこのような考え方を持っておられたことでしょう。ただ、1節の御言葉は、そのような「信念」について語っているのではなく、「信仰」を語っているのです。
信仰の対象は、私たちが実現を望んでいる「事柄」や、その実現を目にしていない「事実」などではありません。私たちの信仰の対象は、主なる神であり、神の独り子イエス・キリストです。ヨハネ福音書14章1節に「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と主イエスが語られています。
であれば、「望んでいる事柄」というのは、主ご自身が望んでおられる事柄ということになるのではないでしょうか。すると、その実現を約束された主なる神の御言葉を信じなさい、まだ実現していなくても、時が来れば実現する神の御言葉を信じて祈り待ちなさいということになりますね。
著者がここで語っている、イエス・キリストを信じる信仰において「望んでいる事柄」、「まだ見ていない事実」というのは、私たちの救いの完成のためにキリストが再臨されることであり(9章28節)、天の故郷に迎え入れられることです(16節)。
私たちがキリストの再臨を待ち望むのは、それによって私たちの救いが完成されて神の子として御国に迎えられ、主なる神と相見えること、主と親しく交わることが出来るからです。神はそのような信仰を喜ばれます。
それが、冒頭の言葉(6節)で語られています。神が喜ばれるのは、「神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であること」を信じる信仰です。神は、自分の願望の実現を求める者たちにではなく、神ご自身を求める者たちに報いてくださるお方なのです。
無論、私たちは自分たちの願いの実現を求めて神に祈ります。願いを適えていただきたいと求めます。そのときに、私たちが実現を疑わずに願うから、真剣に熱心に願うから、それが適えられるということではないのです。繰り返しますが、神が喜ばれるのは、私たちが神ご自身を求めて神に近づくこと、わたしたちに良いものをお与えくださる神を信頼することです。
主イエスが祈りについて、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」と語られました(マタイ福音書6章7,8節)。
だから、祈らなくて良いということではありません。そうではなく、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同6章33節)ということです。私たちの必要をことごとくご存知の主を信頼して自分の願いや問題を明け渡し、その主との交わりを喜び、楽しむことをまず求めよと言われているのです。
4節以下に、アベルをはじめ、信仰者として例示される者の名前が列挙されます。その中で、一番大きく扱われているのが、信仰の父アブラハムです。アブラハムは「信仰によって、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(8節)と言われます。
そしてアブラハムは、イサクやヤコブ(9節)、サラも含め(11節)、「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」(16節)と言われます。アブラハムが望んでいたのは、カナンの地ではなく、天において神と共に住むことだったので、それで彼は、神の召しの言葉に服従して、行き先も知らずに出発したと言われるわけです。
神と神の御言葉に信頼していたからです。そのことが、「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません」(16節)と言われて、それが神の喜ばれる信仰であることを示しています。
主イエスは、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節ほか)と言われました。そう命じられているのは、主がそれを望んでおられるからであり、それを行うことが、私たちの使命だからです。
私たちも主を慕い求め、愛そのものであられる主イエスを心に迎えましょう。主との親しい交わりの内にいつも身を置かせていただきましょう。私たちの内におられる聖霊を通して、心に神の愛を注いでいただきましょう。神の御国は、互いに愛し合う愛に満ち溢れているところなのです。
主よ、絶えずあなたを慕い求め、あなたの教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ幸いな人とならせてください。命の御言葉の流れの側から離れることがありませんように。そこを離れては何をすることも出来ず、風に吹き飛ばされるもみ殻のように、裁きに堪えないからです。そうではなく、御言葉に従って神の愛に生きる者として頂くことができますように。 アーメン
信仰の態度、神さまのご性質、とくに、かみさまの憐れみに触れ、今日まで過ごしました。その間、子供の療育もいろいろな方に、
関わっていただいて、わたしは、神さまの祝福をどれだけ受けたことでしょう。特に、何より、信仰の土台のようなものができました。
その中で、わたしは、前向き、ポジティブ思考、ビジョン(の持ち方によりますが、)の言葉に右往左往させられ、ここ五年程、ずっと、
神さまの思いを探していました。なにを申し上げたいかと言うと、先生と全く同じ思い、御言葉に行き着いたことが、嬉しかったのです。