「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」 ヘブライ人への手紙10章35,36節

 1節に「律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」と言います。罪過の償いはできても、罪の性質を取り除き、清めることが出来ないので、毎年、贖いのいけにえが必要になるというのです。

 そこで神は、キリストを罪を贖う供え物とし、この「唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」(14節)のです。「聖なる者」とは、神が選んだ者、神のものとされた人という意味であり、イエス・キリストを信じる信仰によって救いの恵みに与った者を指しています。

 キリストの贖いにより、私たちの罪が赦され、神の子とされる恵みに与ったのです。私たちが御子キリストを信じたとき、私たちの心にキリストが入って来られました。それが、「わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思い鬼それを書きつけよう」(16節)という御言葉が示していることです。

 御子イエスは「インマヌエル」(「神は我々と共におられる」の意)と呼ばれるお方です(マタイ福音書1章23節)。だから、いつも私たちは主イエスと交わりを持つことが出来ます。「イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(20節)という言葉は、そのことを言っています。

 イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、神殿の至聖所と聖所を隔てていた幕が真二つに裂けました(マルコ福音書15章38節など)。それは、キリストの死によって聖と俗とを隔てていた壁が取り除かれたことを示します。それにより、主イエスを信じる者はだれでも聖所に入り(19節)、神の恵みに与ることが出来るように新しい生きた道が開かれたのです。

 それはまた、神が私たちに近づき、私たちと共にいてくださるという恵みが与えられたということでもあるわけです。私たちが意識して神に近づくときだけでなく、神は私たちと24時間、365日、いつでもどこでも共にいて、私たちを守り導いてくださるということです。
 
 それで、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(22節)、「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」(23節)、「互いに愛と善行に励むように心がけ」(24節)ましょうと勧めています。ここに、いつまでも残る偉大な賜物である「信仰・希望・愛」(第一コリント書13章13節)が、具体的な勧告の言葉として表現されています。

 これは、大胆に神に近づいて礼拝することが出来るように、神が信仰、希望、愛の賜物をくださると読むことも出来ます。これが、冒頭の言葉(35,36節)でいう、「この確信には大きな報いがあります」という内容でしょう。

 永遠に残る偉大な賜物が与えられるということは、永遠の命に与るということです。永遠に神との交わりに生きる者とされることです。そして、その交わりの中に、私たちの愛する神の家族、教会の兄弟姉妹もいます。私たち神の家族の交わりも、主イエスにあって永遠のものなのです。

 その交わりの完成のため、救いの完成のために、キリストが再びおいでになります。それまでの間、忠実に信仰に励んでまいりましょう。キリストの再臨よりも、私たちが召されるほうが早いかもしれません。いずれにせよ、「死に至るまで忠実であれ」(ヨハネ黙示録2章10節)ということです。

 私たちが主に忠実に仕えようとするとき、忍耐が必要だと言われます。信仰が試されます。それは、私たちがすぐに見えるもの、身の回りの環境に目を移してしまうからです。しっかりと主に目を留め、主の御言葉に耳を傾け、一歩一歩着実に歩み続けましょう。
 
 主よ、 今日も御言葉の恵みに与り、憐れみ深い御心の一端に触れさせてくださって、有り難うございます。導きのまま憚らず大胆に御前に近づき、聖霊に満たされ、心からの賛美をささげさせてください。御言葉をいただくことを喜びとし、聴き従うことを楽しみとすることが出来ますように。 アーメン