「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。」 ヘブライ人への手紙8章13節

 8章全体が一つの段落で、新共同訳はここに「新しい、優れた約束の大祭司」という小見出しをつけています。

 8節以下は、旧約聖書エレミヤ書31章31~34節の引用です。8節に「新しい契約を結ぶ時が来る」という言葉があります。そのことを冒頭の言葉(13節)で「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです」と解釈して記しています。

 新しい契約があるということは、古い契約があったわけです。また、新しい契約が結ばれるということは、古い契約が破棄されるということになります。新約聖書は新しい契約が書かれている書物、旧約聖書は古い契約が記されている書物という意味です。ですが、旧約聖書の中に、既に「新しい契約を結ぶ時が来る」と預言されていたわけです。

 「契約を結ぶ」の原語は「カーラト・ブリート」です。「ブリート」が「契約」、「カーラト」が「結ぶ」と訳されています。「カーラト」は「切る」という意味です。それは、契約の際にいけにえの動物を殺し、その血によって契約を結びます。動物が裂かれ、血が流されて契約が結ばれるので、「切る」という言葉が使われるのです(創世記15章9節以下、出エジプト記24章1節以下参照)。

 また、もし契約を破るならば、いけにえの動物が裂かれたようにその身が裂かれて殺されるという罰、神の呪いが、この言葉で表現されているのです。これには、深い意味があります。

 古い契約が破棄されることについて、9節に「彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしも彼らを顧みなかった」と記されています。イスラエルの民が契約を忠実に守らなかったので、神がその契約を無効にされたということです。

 契約の主文は、10節の「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」というものです(エレミヤ書31章33節、出エジプト記19章5,6節も参照)。ですから、彼らは神をおのが神とし、自らを神の民として、神に忠実に仕えることが出来なかったというわけです。

 その結果、イエスラエルの民は、神の加護を失い、バビロンに滅ぼされ、捕囚の憂き目を見なければなりませんでした。約束の地から切り離される罰を受けたのです。

 しかし、神は契約を無効にしたまま、イスラエルを放置されてはおられませんでした。「新しい契約を結ぶ時が来る」(8節)と言われるのは、そのことです。そして確かにイスラエルの民は、バビロンでの捕囚生活、奴隷生活から解放されて約束の地イスラエルの地に戻り、神殿を建て直し、国を築きなおすことが出来ました。そのことを、エズラ記、ネヘミヤ記で学ぶことができます。

 新しい契約が結ばれるためにも、いけにえの血が流されます。新しい契約の血とは、主イエスが十字架で流された血です。第一コリント書11章25節に「また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」と記されています。

 ここに「わたしの血によって立てられる新しい契約」と言われています。罪を犯した私たちの体が裂かれたのではなく、御子キリストが御自分の体をお裂きになり、私たちが血を流したのではなく、主イエスの尊い血潮が流されました。それによって新しい契約が結ばれ、主との新しい交わりが開かれたのです。

 そして、契約の言葉である神の律法を、石の板にではなく、「彼らの思いに置き、彼らの心に書きつけよう」(10節)と言われます。かつて、十戒の言葉は石の板に書かれました、けれども今度は、契約の言葉が思いの中に置かれ、心に書きつけられると言います。それは、文字が頭の中に書きこまれるということではありません。御子キリストが信じる者の心の内に住まれるということです。

 古い契約に基づく律法を行うことによっては、神の国に入ることは出来ませんでした。そこで神は、主イエスを信じる信仰によって、神の国に入る道を開いてくださったのです。主イエスの血によって結ばれた新しい契約は、様々な点で古い契約よりも良いものであることが分かります。

 このことで、ヨハネ福音書2章の「カナでの婚礼」の記事を思い出しました。披露宴が続く中、ぶどう酒がなくなって、それで、主イエスが新しいぶどう酒を用意されるという記事です。しかも、そのぶどう酒は、最初に花婿が用意していたものよりも良いものだったと言われていました。主に問題を打ち明け、主を信頼してその導きに従うとき、主は後から良いものを用意してくださったのです。

 主イエスがその際、召し使いたちに水を汲ませました。その水がめは、ユダヤ人の清めに用いる石の水がめとありました。それは、古い定めに従って手を洗い、体を清めるためのものです。その水がめの水がぶどう酒に変えられました。

 このことをヨハネは、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光をあらわされた」と記しています(ヨハネ福音書2章11節)。しるしとは、神である証拠ということです。確かに、水をぶどう酒に変えるということは、人間には出来ませんから、主イエスが神である証拠ということになります。

 そして、水がぶどう酒になったということは、古い契約を新しい契約に変えたということでもあります。水は古い契約に基づくものであり、そしてぶどう酒は、主の晩餐式で語られるとおり、新しい契約を象徴しているからです。

 さらに、御子キリストは律法や預言者を廃棄するためではなく、完成するために来られたお方であるということも(マタイ福音書5章17節参照)、水がめの縁まで一杯に水を汲ませたということで示しています(ヨハネ福音書2章7節)。

 私たちの人生に、宴会の途中でぶどう酒がなくなるというような計算が狂ってしまう出来事、考えてもいなかったような出来事に遭遇することがあります。近年の大規模災害、原発事故などでその人生に決定的な影響を受けた方がどれほどおられることでしょうか。そして、その理由を説明できる人はいないでしょう。

 けれども、主は後から良いものを出してくださると信じます。苦難は決して良いものではありません。でも、苦しみにあったことは私にとって良いことだった、あの経験をしてよかったと言える日が来るように祈ります。まず被災された方々をはじめ、多くの人々の平安と慰めを祈ります。

 私たちの心の内におられる主は、悲しんでいる人々、苦しんでいる人々の心の呻きを聞いてくださいます。そして、永遠の大祭司として、必ずその呻きに応えてくださると信じます。主なる神は私たちを愛し、万事が益となるよう必ず働いてくださいます。

 主よ、あなたは世界のすべての民に救いの喜びをお与えくださいました。救いの恵みを味わう喜びは、言葉では表現出来ません。信仰によって主が私たちの内にお住まいくださり、その贖いによって罪赦され、神の子となり、命に与った恵みを心から感謝します。いつも、恵みの光のうちを主と共に歩ませてください。 アーメン