「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々のバプテスマについての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」 ヘブライ人への手紙6章1,2節

 5章11節から6章12節までの段落に、「一人前のキリスト者の生活」という小見出しがつけられています。

 冒頭の言葉(1,2節)の最初のところに、「だからわたしたちは」とあります。「だから」とは、前の文章を受けて語られる言葉です。

 前の文章で5章11節以下に「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」(5章11,12節)と書かれています。

 それを受けて、「だからわたしたちは」(1節)というのです。ここに「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々のバプテスマについての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」と、学ぶべき項目が列挙されています。

 ということは、これらをしっかりと学ぶ必要があります。けれども、「基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」といいます。成熟した信徒となるために、第2段階に進みなさいということです。

 第2段階と言いましたが、それはどのような内容なのでしょうか。先ほど、5章11節を見ました。そこに、「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」と記されています。「このことについては」とは、その前の段落、即ち、4章14節以下の「偉大な大祭司イエス」についてということでしょう。

 イザヤ書50章10節に「お前たちのうちにいるであろうか、主を恐れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が」とあります。順風のときだけでなく、逆境の中にいるとき、闇の中、光のない中を歩くようなときも、主の御言葉に従って歩む者がいるだろうかと、イザヤはここに問うています。

 この信仰について、本当に学ばせて頂きたい、少しずつでも成長させて頂きたいと思います。謙遜して、「いつまでたっても信仰が成長しなくて」と言われる方がありますけれども、実はそれは、謙遜でもなんでもありません。主なる神は、成熟目指して進みなさいと言われているのであり、そのようになろうとしないのは不従順で、それは神に喜ばれないことだということを、心に留めるべきです。

 成熟目指して進まなければ、「堕落した者」(6節)となってしまいます。4節以下に「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神の素晴らしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち返らせることはできません。神の子を自分の手であらためて十字架につけ、侮辱する者だからです」と記されています。

 ここで、「光に照らされ」は、「光を与える」(フォーティゾー)という動詞の受身形の過去分詞が用いられています。これは、10章32節と共に、キリストによる救いの認識だけでなく、バプテスマを受けたことをも表しています(第二コリント書4章6節、第一ペトロ書2章9節参照)。「一度」という言葉も、それを指し示しています。

 バプテスマを受けてキリスト者とされたことで、天来の様々な恵みをいただきながら、「堕落した者」となる、その恵みを無価値なものであるかのように表明する生き方をするならば、それ以上の値の高いものを提供することは出来ず、その人をもう一度方向転換させることは極めて困難です。

 神は私たちを、キリストの贖いによってよい畑にしてくださいました。恵みの雨を受け、御言葉の種が芽を出して大きく成長し、収穫を得るならば、神の祝福を受けます(7節)。けれども、御言葉に聴き従わず、自分の思いに任せて生活をするならば、いつの間にか、茨やアザミが生えてきます(8節)。

 主イエスが「種まきのたとえ」(マルコ福音書4章1節以下)で語られたとおり、茨の中に落ちた種は、茨が延びて覆い塞いでしまうので、実を結ぶことが出来ません(同7節)。そして、茨やあざみだらけの畑は、役に立たないため、呪われ、ついには焼かれてしまうのです(8節)。

 けれども、そうは言いながら、ここで著者が本当に語りたいのは、堕落した者を神が裁かれる、再び悔い改めて神に立ち返ることは出来ない、ということではありません。

 9節に「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」と言われます。神は実に憐れみに富み、慰めに満ちたお方です。

 10節に「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」と記されています。

 マタイ福音書10章42節にも、「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と語られています。神のための労苦、主の僕を励ました水一杯を、神はお忘れにならない、報いから漏れることはないと言われるのです。

 だからこそ、怠け者にならず、恵みの主を信頼して信仰に固く立とう、最後まで希望をもって主に仕えよう、と勧めるのです。パウロも、「主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(第一コリント書15章58節)と語っていました。

 主は完全なお方であられるので、主に従順なすべての人を、信仰の成熟へとお導きくださいます。主に信頼し、御言葉に従って目標めざし、前進しましょう。

 主よ、私たちが信仰の基本を身に着け、信仰の深みへと主と共に漕ぎ出し、その恵みを豊かに味わうことが出来ますように。信仰の導き手であり、完成者であられる主イエスに倣い、成熟を目指して進むことが出来ますように。 アーメン