「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」 ヘブライ人への手紙2章10節

 御子キリストは天使に勝る存在であるということが、1章から繰り返し語られています。2章でもこのテーマが引き継がれて語られています。その論拠として、6~8節に詩編8編5~7節の御言葉が引用されています。

 7節に「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが」とあります。神の御子イエス・キリストが人間の姿をとってこの世に来られたことを、天使たちよりも低い者とされたというのです。

 旧約聖書の詩編8編で語られているのはキリストのことではなく、私たち人間のことです。同8編6~7節に「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」とあります。即ち、人間は神よりも僅かに低く造られたと言われているのです。

 これは、ヘブライ書の著者が訳し間違えたり、訳文を勝手に改変したりしたということではありません。ギリシア語訳旧約聖書(70人訳:セプチュアギンタ)を正確に引き写しただけです。新共同訳の旧約聖書はヘブライ語原典から翻訳されたもので、ヘブライ語原典とギリシア語訳旧約聖書の文章にその違いがあったのです。

 何故その違いが生まれたのかを説明することは出来ませんが、しかし、ここに神の摂理があると思います。確かに人は、神よりも僅かに低い者として創造されたのでしょう。というのは、神は、ご自分のかたちに人間をお造りになったのです(創世記1章26節以下)。それは、姿かたちだけのことではなかったでしょう。あらゆる被造物の冠として、すべてを治めるべき存在とされていたのです。

 ところが、人間はその栄光を、呪いに変えてしまいました(創世記3章参照)。それが、神の禁止命令に背いて神のように賢くなろうとした結果でした。しかるに神は、御子キリストを人間としてこの世に遣わし、その栄光を回復するための贖いの供え物とされました(第一ヨハネ書2章2節、4章10節)。

 主イエスはこの地上にあるとき、ご自分を絶えず「人の子」と呼ばれました(マルコ福音書2章10,28節、8章31,38節など)。十字架で私たち人類の罪の呪いを引き受け、その死によって贖いの業を成し遂げられました(ガラテヤ書3章13,14節)。そのことを、ヘブライ語聖書とギリシア語訳旧約聖書が証言していることになります。

 9節で「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたイエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています」(9節)と言います(9節)。神の右に着座されたからというのではなく、自らを贖いの供え物として死の苦しみを通られ、私たち人間の救いの道、かつての栄光を回復する道を開かれたゆえに、栄光と栄誉の冠が授けられたというのです。
 
 冒頭の言葉(10節)は、その根拠、理由を説明します。ここに「救いの創始者」と言われるのは、主イエスのことです。主イエスは、万物の創造者にして相続者なるまことの神です(1章2節)。そして、人間となってこの世に来られ、十字架の死によって人々の罪を清めた後、天にお帰りになられました(同3節)。

 その主イエスが十字架の死に象徴される様々な苦しみを味わわれたのは、苦しみを通して完全な者とされることが、万物の目標であり源である方にふさわしいことだったからと語られています。神の御子であられ、まことの神であられる主イエスが、完全な者とされるために苦しみを通らなければならなかったというのは、どういうことなのでしょうか。

 著者は、「神の御子が苦しまれたのはなぜか」という問いを自ら考えていたのではないでしょうか。あるいは、その質問をユダヤ人たちから突きつけられていたのかもしれません。

 その問いに対する回答として、主イエスが苦しまれたのは、万物の目標であり源である方が完全な者とされるためにふさわしいことだったから、そして、救いの創始者として、多くの子らを栄光へと導かれるために、苦しみを通られたのだと語っているのです。

 「完全な者とされた」というのは、「完成する、成就する」(テレイオオー)という言葉です。罪の苦しみの中にいる「多くの子ら」を栄光へと導く救いの業の完成のために、万物の源、創造者なる神の御子がその呪いを受けられました。

 その贖いの業により、神の右の座に着かれ、万物の目標となる道を完成されたのです。1章4節で「御子は、天使たちよりも優れた者となられました」と言われているのも、このことです。

 さらに17,18節で「イエスは、神の御前におい、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」と言われています。

 これは、単に同じ苦しみを経験しているので、同情することが出来るという意味ではありません。それ以上のことです。というのは、14,15節に「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」と言われているからです。

 逆に私たちの立場から言えば、キリストが私たちの罪のために神の呪いを受け、十字架で苦難の死を遂げてくださったことに比べれば、そして、それによって私たちに与えられる重い栄光を思えば、私たちが信仰のゆえに味わう苦しみは取るに足りないということになります(ローマ書8章18節、第二コリント書4章17節、第一ペトロ書4章13節など参照)。

 その光栄をどのように表現したらよいでしょうか。やがて、まことの救いが完成し、栄光が授けられるときを待ち望みながら、今このとき、主の御言葉に聴き従いつつ、委ねられた御業に励みたいと思います。私たちが主イエスを、自分の主とし、神とさせていただくことの出来た光栄を、心から神に感謝致しましょう。

 天のお父様、御子キリストをこの世にお遣わしくださり、救いの道をお開きくださって心から感謝します。そのご愛が今も私たちに豊かに注がれています。私たちを栄光に導くための主のご受難であったことを覚えて、私たちも信仰の道を全うしたいと思います。御霊によって私たちの歩みを支え、導いてください。アーメン