「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。」 テトスへの手紙3章6節

 1節以下の段落に、新共同訳聖書は「善い行いの勧め」という小見出しがつけられています。この段落の4~7節は、ギリシア語原典では韻文(詩のかたち)になっています。

 私たちを救うためになされた神の御業をたたえる内容になっており、当時の教会の中で用いられていた信仰の宣言文、あるいは讃美歌ではないかと思われいます。讃美歌を手紙に引用している例としては、フィリピ2章6節以下の「キリスト賛歌」などを上げることが出来ます。

 ここで「人間に対する愛」(4節、フィランスロピア:博愛)は、使徒言行録28章2節(「親切」と訳出)とここの2箇所にしか用いられない珍しい言葉です。5節も、パウロの思想をなぞっているようですが、用語法はパウロのものとは思われません。「新たに造り変える」(パリンゲネシア)も、マタイ19章28節で「新しい世界になり」と終末の世界変革を意味する言葉として語られるのみです。

 6,7節では、神の救いの御業が主イエスと関連づけて語られます。4節で神に冠せられた「わたしたちの救い主」という言葉が、冒頭の言葉(6節)ではイエス・キリストに冠せられます。さらに、「イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました」(6節)と、父、子、聖霊が関係づけられています。

 8節で「この言葉は真実です」と語っています。「この言葉」は、4~7節の言葉を指しています。それが重要な宣言ないし賛美の言葉であることを、このように明示しているのです。

 私たちは、讃美歌や祈りのあとに「アーメン」と唱和しますが、それは「それは真実です」という意味です。アーメンという決まりになっているから、そう言うというのではなく、讃美歌や祈りの言葉を受けて、それは真実です、私もそう信ずると和しているのです。ここで、引用された宣言文に「真実です」と言っているのは、それが自分たちも体験したアーメンたる出来事だということなのです。

 5節に「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」と記されています。私たちは義の業をなし得なかったけれども、神は私たちを御自分の憐れみによって救ってくださったのです。神の憐れみなしには、だれも救いの恵みに与ることは出来ません。

 そして、「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」と言います。「洗い」(ルートゥロン)とは、バプテスマを指しています。

 ただ、罪過ちを洗いさえすれば、もとの清く正しい存在になるということではありません。全身を水に浸すことから「洗い」という言葉が出て来たのでしょうけれども、それは、古い自分に死んで新しい自分に生まれ変わるという「新たに造りかえる洗い」なのであり(5節、ローマ書6章3節以下)、「聖霊によって新しく生まれさせ」ることなのです(ヨハネ福音書3章3節以下)。

 「新しく生まれさせる」(アナカイノウシス)という言葉は、「アナ(再び)」と「カイノス(新しい)」の合成語で、「更新(renewal)」という意味で用いられます。ローマ書12章2節でも、「(心を)新たにして」と用いられています。それによって「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」と勧められているのです。

 キリスト・イエスの贖いによって罪赦され、聖霊によって新しく生まれさせられた者は、「無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし忌み嫌われ、憎み合っていた」(3節)生活を捨て、「だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接」(2節)する生活を営まなければなりません。

 そこに、生活を通してなされる証しの業があります。それが、罪人の私たちを憐れみ、贖いの供え物となって下さったキリストに倣い、神の恵みに応える生活であると、ここに教えられているのです。

 冒頭の言葉(6節)は、この聖霊によって新しく造りかえられることのために、キリストを通して聖霊が豊かに注がれたと読むことも出来るでしょう。しかしながら、ここは、聖霊によって新しく造りかえられた人々に、さらに豊かに聖霊が注がれると読むべきだろうと思います。

 それは、私たちがバプテスマを受けてクリスチャンになりさえすれば、それでもう大丈夫ということではないからです。借金体質の会社の赤字をだれかが補填してくれたとしても、翌日からまた借金の生活が始まり、赤字が膨らんでいってしまいます。体質そのものが改善されるように、テコ入れくれる人が必要なのです。

 それと同様、私たちが聖霊によって新しくされた信仰の生活をおくるために、どうしても聖霊の助け、導きを必要としているということです。だから、主イエスは私たちのために、聖霊をちょっぴりではなく、豊かに注いでくださるというのです。

 パウロはその力で絶えず励まされ、いつでもどこでも大胆に、キリストの福音を宣べ伝えました。自分を殺せと叫んでいる人々に向かって21章36節以下)、また、最高法院で(23章1節以下)、総督フェリクスに対して(24章10節以下)、総督フェストゥスとアグリッパ王の前で26章2節以下)、弁明と称して自分の信仰体験を語り継げました。

 聖霊の力と導きをいただいたからこその働きでしょう。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし(キリスト)の証人となる」(使徒言行録1章8節)というとおりです。

 主なる神は、キリストを通して聖霊を豊かに注いでくださいますから、祈り求めてその力を受けましょう。そうして、主の証人とならせていただきましょう。主の栄光のために、委ねられている賜物を用いさせていただきましょう。主はそのことのために、私たちを極みまで愛して、十字架の死に至るまで、従順に歩んでくださったのです。ハレルヤ!

 主よ、おとめマリアが天使の告げる御言葉を信じて受け入れたとき、聖霊の力がマリアに臨みました。私たちも御言葉を信じます。日々十字架を仰がせてください。そして、絶えず聖霊に満たしてください。聖霊の力を受けて、主に命じられた宣教の使命を果たすことが出来ますように。宣教を通して、私たちの街にも神の愛と恵みが明らかにされますように。 アーメン