「また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」 テトスへの手紙2章13節

 新共同訳聖書は、2章に「健全な教え」という小見出しを付けています。ここには、年老いた男(2節)、年老いた女(3節)、若い女(4,5節)、若い男への勧めがあり(6,7節)、そして、テトスへの勧めがあり、最後に、奴隷への勧めもあります(9,10節)。

 ここでは、教会の秩序を健全に保つということが念頭に置かれ、その秩序を乱すものを不健全な教えと考えていることが示されます。そもそも、1章5節に、「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです」といって、教会に指導者を立てること、その指導によって教会を整え、育てることを指示しています。

 秩序を守る、指導者の指示が行き届くように体制を整えるというのは、しっかりと安定した組織を作るためには必要なことと思われます。しかしながら、何のためにその体制が必要なのかと考えると、組織作り、体制作りというのは、神の御言葉、指導者の指導が行き届くためです。

 組織さえ出来ればよい、そしてその組織を保たなければならないということではありません。その組織を構成しているすべての人々、隅々に至るまでキリストの血が通い、神の恵みが行き渡るように、生きた組織を作らなければなりません。

 既に、すべての人に救いをもたらす神の恵みは現れました(11節)。今から2000年前、ユダヤのダビデの町ベツレヘムに救い主メシアとして、主イエスがお生まれになったのです。天使が、今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ福音書2章11,12節)と告げました。

 この知らせを聞いた羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」と聞いたとき、それはまさに自分たちのところに来てくれた救い主だと感じることが出来たことでしょう。その場所ならば、正装していなくても、野宿して羊の番をしていたそのままの格好で、近づくことが出来ます。飼い葉桶の置かれている家畜小屋は彼らの仕事場だからです。

 それに象徴的に示されているように、主イエスはすべての人々に救いをもたらしたお方なのです。教会は、キリストの体と言われます。この世に来られたキリスト・イエスの心を戴し、この世に対してキリストの御心を行う生きた体、それが教会です。

 キリストの御心は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」ということです(マタイ福音書28章18節以下)。

 このことを1章3節で、「わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教を委ねられたのです」と語っていたわけです。

 「救いをもたらす神の恵み」を受けて12節に、「その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」と言います。原文は、「教える」を意味する動詞(パイデウーサ)で始まっています。神の恵みは、信じる者を義とするだけでなく、「思慮深く、正しく、信心深く生活する」ことを教えるというのです。

 「不信心と現世的な欲望を捨てて」というのは、キリスト者の生活の基準が世間的な常識などではなく神の恵みにあることを示しています。そこでは、信仰により、御言葉と祈りを通して神の御前に正しく判断することが求められています。

 それに続けて語られるのが、冒頭の言葉(13節)です。ここで「祝福に満ちた希望」(ヘ・マカリア・エルピス)を、「イエス・キリストの栄光の現われを待ち望む」ことと説明しています。それは、キリストが再び地上に来られるのを待ち望むということです。それが、「祝福に満ちた希望」と言われるのは、キリストの再臨によって悪が完全に裁かれ、滅ぼされて救いの御業が完成するからです。

 キリストの再臨によって救いの御業が完成するということは、今は未完成の状態にあるということです。ただ、この救いは徐々に完成に向かうというものではありません。世の中がだんだん清く明るく正しくなって神の国が完成するのではなく、この世が裁かれ、滅ぼされて、新しい天と地が創造されるのです(イザヤ書65章17節、第二ペトロ書3章12,13節、黙示録21章1節など)。

 いまだ救いの完成していないこの世を、思慮深く、正しく、信心深く生きることにより、その人の内に神の恵みが働いていることが証しされます。そうして、救い主キリストを正しく待望する生活が出来るのです。

 神の憐れみなしには何も出来ない私たちです。であればこそ、神の恵みに応えて、その使命を果たすことが出来るよう、日々主を仰ぎ、私たちを神の宮としてその内に宿っておられる聖霊に、栄光から栄光へと主と同じ姿に造り替えていただきたいと思います(第二コリント書3章18節)。

 主よ、絶えずキリストの十字架を見上げさせてください。常に神の恵みを心に留めさせてください。再臨の主を待ち望ませてください。そのために、日々御言葉と祈りをもって生活し、主の使命に生きることが出来ますように。 アーメン