「神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教を委ねられたのです。」 テトスへの手紙1章3節

 今日からテトス書を読みます。この手紙は、第一テモテ書と同時期に、同じ著者によって記されたと考えられています。

 この手紙の受取人とされているテトスは、第二コリント書、ガラテヤ書、第二テモテ書に、その名が記されています。けれども、不思議なことに、使徒言行録には登場して来ません。

 ガラテヤ書2章13節によれば、彼はギリシア人で、本書2章6~7節と第一テモテ書4章11節との関連で、恐らくテモテと同世代だと思われます。また、「信仰を共にするまことの子テトス」(4節)という言葉から、テトスがパウロの伝道によって救いに導かれたことが分かります。

 テトスは、パウロに連れられてエルサレムの使徒会議に出席しました(ガラテヤ書2章1節、使徒言行録15章参照)。であれば、使徒言行録16章の記事から、テトスはテモテよりも早くパウロの同労者となったということになります。

 また、パウロから手紙を託されてコリントに赴き、パウロとコリントの教会の関係を修復することに成功しました(第二コリント書7章5節以下)。さらに、苦闘しているエルサレム教会を援助するための募金活動を行っています(同8章6節以下)。このように、テトスはパウロの同労者として、その信任を受けて働いている様子を知ることが出来ます。

 5節に「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです」とあります。「クレタに残してきた」ということは、パウロがテトスと一緒にクレタに行ったこと、そして、テトスが今クレタ島にいることを示しています。

 使徒言行録によれば、パウロがクレタ島に行ったのは、エルサレムからローマに向かって護送されていく途中のことです(27章7節以下)。護送途中のパウロが、クレタで宣教活動が行えたとは考えられません。「町ごとに長老を立てる」必要があるほど教会の働きが進展しているのであれば、使徒言行録に記されていない働きがあったと考えざるを得ません。

 ある学者は、パウロがローマに送られた後、自由の身になって第四回伝道旅行を行い、そのときにクレタ島での宣教がなされて、設立された教会を指導するためにテトスを残したのであろうと考えています。ただ、第三回伝道旅行中、ローマに宛てて書いた手紙で、スペイン伝道の計画について記していたパウロが(ローマ書15章23,24節)、クレタ伝道をしたとは考え難いところです。

 上に述べたようなパウロとテトスの関係から、「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから」(1節)という挨拶が記されているのは、この手紙がひとりテトスのために書き送られたものではなく、テトスとクレタの教会の人々に読ませるためのものであることを示しています。

 特に「神の僕」という肩書きは、他のパウロの手紙では見ることが出来ません。これは、「不従順な者、無益な話をするもの、人を惑わす者」と呼ぶ異端的な教えを持ち込む者に対抗するために、「神の僕、イエス・キリストの使徒」と強調して語る必要があったためでしょう。

 それは、彼が使徒とされた目的を「神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くため」と記しているところにも表れています。ローマ書1章5節で「御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くため」と言い、その使命は福音宣教にあると見ることが出来ます。

 一方、「信心に一致する真理の認識に導く」(1節)とは、異端的な偽りの知識や教えから教会を守り、信仰の一致を保つように指導する信徒の教育・牧会にその使命があると読めます。キリストに立てられた使徒として、福音宣教によって多くの信徒を獲得すると共に、キリストを信じる信仰によって一致を保つよう信徒を教え導くため、特に誤った教えに惑わされないよう、心配りしていたわけです。

 それは、真理の認識、即ちキリストを信じる信仰によって、「永遠の命の希望」(2節)が与えられるからであり、この命は、偽ることのない神が、永遠の昔に約束されたものなのです(第二テモテ書1章9節、ローマ書1章2節以下)。
 
 冒頭の言葉(3節)で「定められた時に」というのは、イエス・キリストがこの世に来られたときにということです。そして、「宣教を通して御言葉を明らかにされました」とは、主イエスこそ神の御言葉そのものであり、その御言葉が人間となってこの世に現れたことを表しています(ヨハネ福音書1章1節以下、14,17,18節参照)。

 そして、神の御言葉なる主イエスの宣教により、神の御心が示されたのです。残念ながら、この世は主イエスの宣教を受け入れませんでした。かえって、主イエスを十字架につけて殺してしまいました。

 しかし、神は主イエスを死者の中から甦らせられました。神の御心は、死によって中断されません。むしろ死を打ち破られたのです。主イエスの死は、私たちの罪を贖うためのものであり、死に勝利された主イエスは、今も生きて私たちを導いてくださいます。

 そして主イエスは、宣教をご自分に従う者たちに委ねられました。パウロは「わたしたちの救い主である神の命令によって」と語って、キリストが神で、その命令で使徒となり、福音宣教の使命が与えられたと明言しています。

 私たちも同じ主によって贖われ、永遠の命を与えられました。主によって福音が委ねられています。それぞれの分と賜物を用いて、主の愛の証し人としての使命を果たしてまいりましょう。

 主よ、パウロに委ねられたキリストの福音は、宣教命令に従う者たちの言葉と行いを通して、現代の日本にいる私たちのところにまで宣べ伝えられて来ました。その福音が真理であった何よりの証拠です。私たちも、聖霊の力に与って委ねられた宣教の使命を感謝と喜びをもって全うさせていただくことが出来ますように。静岡の町に住む70万の人々に神の愛と恵みが届きますように。 アーメン