「聖書はすべて神の霊の導きのもとに書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」 テモテへの手紙二3章16節

 これから困難(1節以下)を経験するであろうテモテをはじめとする教会の指導者たちに、10節以下で「最後の勧め」として励ましを与えます。その中心メッセージは14節の「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」ということです。

 信仰によって生きる者には、迫害が待ち受けています(12節)。また、信仰の道から離れさせようとする惑わしもあります(13節)。当時、様々な教えに振り回されて真理からそれて行くキリスト者が少なくなかったのです。特にグノーシス主義(霊的な知識を重んじるグループ)には、どちらが正統であるか分からなくなるほどの影響を受けていました。それと戦わなければならないわけです。

 パウロは、「自分が学んで確信したことから離れるな」と命じる根拠を二つ挙げています。一つは、それを「だれから学んだか」(14節)を思い出すことです。誰からかといえば、勿論パウロから学んだのです。1章13節にも、「わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」と語られていました。パウロから学んで得た確信に堅く立てと言われているわけです。

 実は、この「だれから」(パラ・ティノーン)というのは、「だれ」(ティス)の複数形が用いられています。つまり、「教師」はパウロ一人ではないわけです。そこで想定されているのは、テモテの母エウニケや祖母ロイスでしょう(1章5節)。母たちから純真な信仰を学び、受け継いだのです。それは、15節の「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っている」という言葉からも窺えます。

 ユダヤ教では、5歳になると聖書を読むように教えられたそうです。テモテの場合、父親がギリシア人ですし(使徒言行録16章1節)、生後八日目の割礼も受けていなかったことから(同3節)、それを厳格に行うことが出来たかどうかは不明です。それでも、テモテが幼いときから聖書に触れる環境にあったことは事実でしょう。

 二つ目の根拠は、その聖書です。主イエスも、悪魔の試みに遭われたとき(マタイ福音書4章1節以下)、申命記の御言葉をもってその誘惑を退けられました。ここに「聖書」([タ]・ヒエラ・グランマタ)と記されているのは、旧約聖書のことです。この手紙が記された頃、まだ新約聖書はまとめられていなかったからです。

 旧約聖書を指して「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」(15節)と記されていることを、しっかり受け止めましょう。旧約聖書からキリストの福音を聞くことが出来るということですし、聞かなければならないのです。

 なぜならば、 冒頭の言葉(16節)に言うとおり、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」たからです。神の霊は、主イエスが話したことを思い起こさせ(ヨハネ福音書14章26節)、主イエスについて証しをされます(同15章26節)。だから、神の霊の導きの下に書かれた旧約聖書に、キリストの福音が記されているわけです。

 そして、主イエスご自身が、[あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ」(同5章39節)と仰っています。主イエスを証しする書物として旧約聖書を読むように教えられます。

 また、神の霊は「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(同16章8節)と言われています。神の霊の導きの下に書かれた聖書が「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(16節)と言われる所以です。

 「導く訓練」(パイデイア)というのは、[子ども」(パイディオン)に関係があり、「教え育てる」という意味の言葉です。何でもインスタントに手に入れるというわけにはいきません。子どもが様々なことを学びながら成長するように、時間をかけて学びます。

 「義に導く訓練」ということは、神との正しい関係に導く訓練、神との正しい関係における教育ということです。人と交わり、関係を深めるには、時間がかかります。神と交わり、その関係を深めるのにも、時間が必要なのです。

 絶えず御言葉に聴き、御言葉が示す主イエスを信じる信仰の道に歩み、その真理に堅く立ちましょう。

 主よ、今日も私たちを御言葉で養い、導きをお与えくださって有難うございます。世の惑わしから、悪の誘いから、私たちを守ってください。聖書の真理に目を開かせてください。目を覚まして、信仰によって歩ませてください。主に仕える者として善い業を行うことが出来るよう、十分に整えてください。 アーメン






 パウロは最後の勧めとして、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」(14節)と語ります。当時、様々な教えに振り回されて真理からそれて行くキリスト者が少なくなかったのです。特にグノーシス主義(霊的な知識を重んじるグループ)には、どちらが正統であるか分からなくなるほどの影響を受けていました。
 テモテが正統な教えにとどまるために、二つのことを思い出させます。一つは、彼の信仰の指導者のことです(14節後半)。それは勿論パウロです。パウロは彼が信じ、宣べ伝えたキリストの福音のゆえに様々な試練、迫害を受けていますが、それに耐えました(11節)。後に続くテモテにも、パウロのことを思い出して、試練と迫害に耐えて、パウロから学んだところに堅く立つように、というわけです。
 しかし、テモテの指導者はパウロだけではありません。「それをだれから学んだか」という言葉の中の「だれから」というのは、実は複数形なのです。パウロは一体だれを、テモテの信仰の指導者と考えているのでしょうか。それは、「祖母ロイスと母エウニケ」(1章5節)です。彼女たちの信仰の指導は、とくに「幼い日から聖書に親しんできた」(15節)というところに表われています。ユダヤでは、子どもが5歳になったら聖書を読むように教えるのが慣わしでした。テモテの父はギリシャ人でしたが、彼は母方の宗教指導を受けて育ったのです。そしてそのことは、テモテにとって大きな恵みでした。
 それは、幼いときから聖書に親しんだことで、彼に純真な信仰を抱かせたからです(1章5節)。15節にも、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」と記されています。パウロはテモテに、もう一つのこととして、聖書に親しんできたこと、学んだことを思い出して、御言葉に堅く立つように、と勧めているのです。主イエスも、悪魔の試みに遭われたとき(マタイ福音書4章1節以下)、申命記の御言葉をもってその誘惑を退けられました。
 冒頭の言葉にあるとおり、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」ました。ということは、聖書を読むとき、神の霊の導きが必要だということになります。聖書を読みさえすれば、だれでも簡単に信仰が持てるというものではないわけです。けれども、神の霊の導きを受けるというのは、難しくありません。神は御自分の御心を隠そうとしておられるのではなく、聖書の御言葉を通して、御心を示そうとしておられるからです。ただ、何でもインスタントに手に入れる、というわけにはいきません。人と交わり、関係を深めるには、時間がかかります。神と交わり、その関係を深めるのにも、時間が必要なのです。
 聖書は、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」と語られます。「教え、戒め、誤りを正し、魏に導く」のに有益というのではなく、それらの「訓練をするうえに有益です」というのです。私たちが御言葉の前に謙り、御言葉に従うことで、信仰が導かれます。整えられます。そうして、神との交わりが深められていくのです。

 主よ、あなたの御言葉をお与えくださって、感謝致します。いつも御言葉を思い起こし、絶えず口ずさみ、そうして、信仰の実を豊かに結ぶことができますように。 アーメン


12月6日(火) 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」 第二テモテ書3章16節