「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。」 テモテへの手紙二1章8節

 本日から、テモテへの手紙二を読み始めます。冒頭の言葉(8節)に「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と言い、12節で「恥じてはいません」、16節には「恥とも思わず」と、「恥」という言葉が1章で3度も語られます。

 6節の「あなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように」、7節の「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださった」という言葉と合わせ、ローマ帝国による迫害を恐れ、「俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論」(第一書6章20節)などに惑わされて福音を恥とする思いに捕らわれないよう、励まそうとしているようです。

 使徒パウロは、「わたしは福音を恥としない」(ローマ書1章12節)と言います。こういう言い方をする背景には、福音が恥とされることがあるということです。かつてパウロは、キリストの福音を恥と考えて、キリスト教会の撲滅を図る迫害者でした。

 しかし、パウロはその福音によって義とされ、永遠の命を受けました。「恥としない」というよりもむしろ「誇りとする」という者になっているのですが、あえて「恥としない」という言い方をして、自分の経歴を滲み出させているのだと思います。

 恐れや不安に脅かされている指導者たちを励ますのに、まず、自分がどのようにして信仰の道に入ったのかを思い起こさせます(5節)。テモテは、パウロの伝道を通して主を信じる者となったのですが、その信仰は祖母ロイスと母エウニケから受け継いだものです。信仰が受け継がれていて、テモテもその素晴らしさを知っていたのです。

 私たちも、自分がどのようにして信仰の道に導かれたか、思い出してみましょう。生まれつきクリスチャンという人はいません。また、初めからクリスチャンになりたいと思っているいた人もいないでしょう。色々な人や出来事との出会いを通して、主イエスを信じる信仰に導かれました。そして、それらの出会いの背後には、神様のお導きがあったのです。

 そして、祖母ロイスの信仰が母ユニケに、そしてテモテにも受け継がれたように、私たちの信仰も子に孫に受け継がれていく必要があります。また、テモテがパウロの伝道によって信仰に導かれたように、私たちの周りにいる知人や友人に福音を告げ知らせる責任が私たちにあります。そのため、主の導きを真剣に祈りましょう。

 ついでパウロは、神の賜物が与えられていることを思い起こさせます(6節以下)。「わたしが手を置いたことによって」(6節)とは、テモテを伝道者に任命し、その働きのために祝福の祈りをすることです。ということは、神の賜物とは、伝道者としての使命が与えられたこと、そして、その使命のために必要な霊的な知恵や力が授けられたことを示しています。

 「賜物を、再び燃え立たせなさい」(6節)と言われているということは、今それが十分に燃えていない、くすぶっていて、そのまま放置すれば消えてしまうような状態になっているということではないでしょうか。かつては熱く燃えていた信仰が、だんだん生温くなり、いつしかその火が消えかかってきているとすれば、問題でしょう。

 ヨハネ黙示録3章14節以下のラオディキア教会のように、主から、「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」と言われてしまいます。
 
 それでは、どうすれば賜物を再び燃え立たせることが出来るというのでしょうか。パウロは、神が私たちに聖霊を与えてくださったと言います。そしてその霊は、「おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊」(7節)と言われています。臆病にさせる霊ではなく、力と愛と思慮分別を与える霊をお与えくださったというのです。

 「聖霊が降るとあなたがたは力を受ける」と使徒言行録1章8節に約束されています。そして、同2章1節以下で、約束の聖霊が降ったとき、弟子たちは力を得ました。それまで、ユダヤ人たちを恐れて鍵を厳重にかけて部屋に閉じこもっていたのに、力を受けるやいなや 、いつの間にか部屋の外に飛び出して主イエスの復活を力強く証言していました(同4節)。

 そして、彼らの様々な国の言葉で語り出した神の偉大な御業の証言、使徒ペトロが語り告げた説教(同14節以下)を通して、3000人もの人々が主イエスを信じて群れに加わりました(同41節)。彼らは互いに愛し合い、すべての持ち物を共有にするという生活をしたと報告されています(同44,45節)。

 かまどの中でよく燃えている薪でも、一本だけ取り出してよそに置けば、すぐに火が消えてしまいます。しかし、もう一度かまどの中に戻せば、再び燃え始めます。テモテも、神から召されて「多くの証人の前で立派に信仰を表明」(第一書6章12節)することが出来ました。しかし一人遣わされて奉仕を続ける内に、臆病風に吹かれて火が消えかかるようなことがあったのです。

 また、私たちはいつも側にいる人、側にあるものに影響されます。短気な人や神経質な人の側にいて、暢気で鷹揚にしているのは易しくないでしょう。いつの間にか自分もイライラしてきます。嫌な気分になっています。臆病のオーラを放っている人の側にいたら、自分も心配性になるでしょう。反対に、どんなときにも落ち着いている人が側にいれば、私たちも落ち着くことが出来ます。

 あなたの側にいるのはどなたですか。その方は、臆病な方ではない、力と愛と思慮分別に満ちている聖霊なる神様なのですと、パウロが教えてくれます。これは、パウロ自身が今、心で体で味わっていることでしょう。パウロの内に力と愛と思慮分別に満ちた聖霊がおられ、彼に、力と愛と思慮分別を与えてくださっているのです。

 だから、殉教の死を前にしているパウロが、臆病になっているテモテを慰め、励ましているのです。4章9節に「急いでわたしのところへ来てください」とあります。それはパウロ自身の必要でもあることでしょうけれども、一緒にいて苦しみを共にしながら、その苦しみに打ち勝つ「力と愛と思慮分別の霊」の強さをも、共に味わいたいのです(8節)。

 私たちも臆病です。ですから、与えられている信仰、私たちに与えられた召しと賜物のことを、そして、私たちの内に、私たちと共におられる聖霊なる神のことを絶えず思い起こし、祈りと御言葉を通して、ほかの人々をも慰め励ますことの出来る力と知恵をいただきたいと思います。

 力と愛と思慮分別の霊に満たされて日々御言葉に耳を傾け、委ねられている主の御業に共に励みましょう。主にあって、私たちの労苦は決して無駄になることがありません。

 主よ、どうか私たちの心の眼、信仰の目を開かせてください。御言葉と祈りを通して、主をさらに深く知ることが出来ますように。信仰に立って、委ねられた賜物を主のために用いることが出来ますように。力と愛と思慮分別の霊に満たしてください。そうして、慰めと励ましに溢れる愛の教会を共に建て上げることが出来ますように。 アーメン