「あなたのうちにある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。」 テモテへの手紙一4章14節

 12節に、「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」とあります。殉教前のパウロは60歳代であろうと思われます。対して、テモテは30代でしょうか。

 ただ、年が若くて軽んじられるというのは、テモテ自身の責任ではありません。年若い者に対して、まだまだ、くちばしが黄色いなどと年長者が言われることがあります。確かに経験の差などは、いかんともしがたいところです。けれども、誠実な奉仕、そして語る言葉と行動が真実であれば、人は次第に耳を傾けてくださるようになるでしょう。

 「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい」(12節)とはそのことです。あらゆる点で誰よりも優れているということよりも、どんなに言葉や業が拙くても、主に委ねられたことを誠実に行い続けることを通して、その忠実さ、守り続ける姿勢が人々の模範になります(15節も参照)。

 指導者に権威を与えるのは神ご自身です。指導者は自ら神の権威をカサに着ることは出来ません。神の子の権威は、仕えられることにではなく、仕えるところに表されるからです(マルコ福音書10章45節参照)。教役者は、御言葉をもって人々に仕えるように召された主の僕です。召してくださった主への畏れをもち、忠実に仕えなければなりません。

 モーセは優れた指導者で、彼の右に出る者はいないと思いますが、一度失敗しました。それは、イスラエルの民を連れて荒れ野を旅しているときのこと、飲み水がないと不満を言われて、彼が主の命令に従って岩から水を出すところです(民数記20章1節以下)。

 神はモーセに、「彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい」(同8節)と言われました。ところがモーセは「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」(10節)と言って、持っていた杖で岩を二度打ちました(同11節)。すると、水が出ました。

 けれども神は「イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導きいれることは出来ない」(同12節)と言われました。神が命じたとおりに忠実に従わなかったと責められ、それで、約束の地に入れないというわけです。これが、御言葉に忠実に従うべき指導者の使命の厳しさです。

 モーセは一度、メリバで水を出したことがあります(出エジプト記17章1節以下)。そのとき神は、杖で岩を打って水を出せと言われました。そのとおりにすると、水が出たのです。その経験が、彼を主の御言葉に忠実に従うことを妨げました。彼は、岩に命じるべきところを、岩を杖で打ってしまいます。

 彼は、御言葉に従うよりも自分の経験に基づいて行動したほうが確かであると考えていたのでしょうか。それとも「岩を打って水を出せ」と言われたと早合点して行動してしまったのでしょうか。私などはそのクチかも知れません。いずれにせよ、かつての経験が主の御言葉を注意深く聞き、素直に従おうとする思いを鈍らせたのです。

 13節で「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」と言われています。「聖書の朗読」(アナグノーシス)とは、礼拝の中で聖書が朗読されることです。そして「勧め」(パラクレーシス)は、礼拝の中で行われる説教です。「教え」は、信徒を整えるための、また、バプテスマ志願者に対する教育訓練を指します。

 聖書の朗読と勧めと教えに「専念しなさい」(プロスエコー)と命じられるということは、テモテがそれを疎かにしているということではないと思いますが、それが御言葉をもって教会を指導する教役者の使命であり、彼の働きの中で最も大切にされるべきことであることを教えます。

 もちろん、訪問したり、手紙を書いたりということも大切ですし、集会の準備のための事務的な働き、集会所・礼拝堂の管理的な働きも、しなくてよいわけではありません。けれども、先ず神の御前に出て御言葉を聴き、祈り、そして委ねられた神の御言葉、福音のメッセージを語り、信徒を教え、訓練することに打ち込みなさいというのです。

 そして冒頭の言葉(14節)のとおり、「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです」と言われます。

 「恵みの賜物」(カリスマ)とは、神から主イエスを信じる者それぞれに分け与えられた様々な職務、あるいはその職務を果たすために与えられる霊的な力を意味しています(ローマ書12章6節以下、第一コリント書12章4節以下、同28節以下など参照)。

 ここで「長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです」と言われますが、第二テモテ書1章6節には「わたし(パウロ)が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物」とあり、長老たちと共にパウロも按手して、テモテを教職者の務めに任じたということを指していると思われます。

 「恵みの賜物を軽んじてはなりません」(メー・アメレー・トゥー・エン・ソイ・カリスマトス)と言われるのは、神に委ねられた職務、それを果たすために委ねられた力を軽んじるなということです。これは、ひとりテモテに語られているのではありません。

 恵みの賜物は、上に示したとおり、神によってすべての人々に与えられているのです(第一コリント書12章11節)。主イエスが僕たちの力に応じて、5タラントン、2タラントン、1タラントンと、分け与えられるという例え話をしておられます(マタイ25章14節以下)。

 1タラントンは6000デナリオン、少なく見積もっても3000万円ほどという高額です。それを資本にどういう商売が出来るでしょうか。主人の期待は小さくありません。それに恐れをなして1タラントンを地の中に埋めておいた者は「怠け者の悪い僕」(同26節)と言われてしまいました。

 そうならないために、日々神の前に静まり、御言葉に聴く時をもつ、そのような親しい神との交わりなくして、神の御心をわきまえ、実行することは出来ません。神を畏れ、御言葉に真剣に耳を傾けましょう。信仰をもってその導きに従いましょう。それこそ、パウロがテモテを通して、教会の信徒たちを教え導こうとしていることなのです。

 主よ、あらためて御言葉に聴く姿勢を教えてくださり、有難うございます。いつの間にか、経験に頼り、人と比べたりして安心しようとしてしまいます。いつも畏れをもって御前に進ませてください。委ねられた使命を、畏れの心をもって、誠実に忠実に果たしていくことが出来ますように。主の御名が崇められますように。 アーメン