「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」 フィリピの信徒への手紙3章8,9節

 この手紙は「喜びの書簡」とあだ名されるほど、喜びに溢れています。1節にも「主において喜びなさい」と記されています。「主の中で、主に結ばれて」(エン・キュリオー in the Lord)、「喜びなさい」(カイレテ rejoice)と命じられているのです。

 喜びというのは、通常、命じられて出来るものではありませんけれども、パウロがここで「喜びなさい」というのは、これから喜べることが起きるから、喜ぶ理由が与えられるから、喜べということではありません。むしろ、能動的に、積極的に喜ぶのです。

 辛いことがあり、苦しみを味わっても、不幸が襲って来ても、それに対して、喜びをもって打ち勝つことができると語られているのです。そういう喜びを持っているのが、主に結ばれている、主において生きている信徒の基本的な姿勢だと、パウロは考えているわけです。

 2節に「犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」という言葉があります。これは、救いの完成のためには、割礼を受け、律法を遵守することが必要だと説く人々のことを警戒するようにということです。

 彼らを「犬ども」と呼んでいますが、ユダヤ人たちが割礼を受けていない異邦人のことを軽蔑して「犬」と呼んでいました。パウロはそれを逆手にとり、割礼を最重要視している人々こそが、神の救いからほど遠い「犬」に他ならないというのです。

 ユダヤ人でない者が割礼を受けることは、身体に切り傷をつけるだけのことで、それは「入れ墨」と同様、律法で禁止されていることでした(レビ記19章27節、申命記14章1節)。それで、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」という訳し方をしているのです。

 本来、割礼は神がイスラエルの民に与えた古い契約のしるしでした。それに対して「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」(3節)と言い、それは、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」(3節)と、新しい契約のしるしをそこに示しています。

 パウロにとって、礼拝とは、全生活を通して神に仕えることと言ってもよいと思います。それを、自分の力で、自分の思いによってというのではなく、神の霊によって、神の力、神の働きを通して可能になる新しい生活、それを、たとえば割礼を受けるというようなかたちで、人間の側に何らかの保証を求めようとする考え方を拒絶しているわけです。

 そして、「キリスト・イエスを誇りとする」という言葉は、「肉に頼らない」という言葉に対応する表現です。であれば、神の霊によって礼拝することを、「キリスト・イエスを誇りとする」という言葉で説明していると言ってもよいでしょう。

 「誇りとする」(カウカオマイ)という言葉には、「喜びとする、信頼する」という意味もあります。キリスト・イエスを信頼し、肉を頼りとしない生活は、神の霊の助け、神の霊の働きなしには可能とならないということになります。

 9節の「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」という言葉にパウロの信仰の確信が言い表されています。ここで、「律法から生じる自分の義」と、「キリストへの信仰による義」、「信仰に基づいて神から与えられる義」とが対比されています。

 この対比は、「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」という3節の言葉で、肉に頼ることと、キリスト・イエスを誇りとすることとの対比で既に示されていました。

 「肉に頼る」というのは、勿論、「肉体」のことではなく、生まれ持った性格や才能、また家柄、財産、あるいは、自分の力で獲得したもの、そのようなものに頼ることを指します。つまり、神の救いに依り頼まず、自分の力で何とかしようと考える、キリストを信じるだけでは不十分で、救いの完成のためには人間的な努力も必要だという生き方をすることです。

 それは、かつてのパウロの生き方でした。しかし、それが復活の主イエスと出会って一変しました。冒頭の言葉(8節)の「あまりの素晴らしさ」は「フペルエコウ」という言葉で、「超越する、凌駕する、権力を持つ、権威ある」という意味を持っています。そこから「あまりの素晴らしさ」、「絶大な価値」(口語訳)、「卓越したすばらしさ」(岩波訳)という訳がつけられるわけです。

 ということで、主イエスを知ることはあまりにも素晴らしいこと、絶大な価値があることだと、パウロは語っているのです。パウロがキリストを知ったとき、それまでの価値観が逆転しました。キリストを知るとは、キリストについて勉強することではなく、キリストを信じることであり、キリストとの出会いと交わりを経験することです。

 神の冒涜者を殲滅するつもりで、真の神の御子キリストを迫害していたことに気づかされたとき、彼はどんなに驚いたことでしょうか。そして、慄いたことでしょうか。

 使徒言行録9章9節に「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」と記されています。目が見えなくなっていたことも重なり、何も出来ず、神の裁きを待っていたのでしょう。しかし、パウロを待っていたのは裁きではありません。元どおり目が見えるようになり、聖霊で満たされて、主イエスの証人とされたのです。

 迫害者サウロは、異邦人に対する伝道者パウロとなりました。イスラエル王サウルに因んで「サウロ」と名づけられているのに、手紙の中では一度も「サウロ」と名乗らないこと、また「パウロ」とは「小さい」という意味であることから、彼は確かにキリストと出会って、それまで自分が誇りとしていたものを捨てたのです。

 血筋を誇り、律法を守り行う熱心のゆえにキリストの教会を迫害することが誤りだったということは、そのような肉に頼ることが主イエスを信じる信仰を妨げるものだということになります。自分が誇りと考えていたものが、かえってマイナスだったわけです。ですから、それらを、「塵あくたと見なしています」とまで言うのです。

 信仰によって、肉の誇りを失いましたが、それとは比べものにならないものを得ました。それは冒頭の言葉の最後の言葉で、「キリストを得」と記されています。この「得る(ケルダイノウ)」というのは、7節の「有利(ケルデー)」と訳されている言葉の動詞形です。それまで有利と思っていたものを捨てて、キリストを手に入れた、獲得したというのは、言葉遊び以上の面白さです。

 この「キリストを得た」ということを、9節で「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と言います。「神から与えられる義」とは、神がお与えくださる救い、神との正しい関係を意味します。人間が自分の働きで神の義を獲得することは出来ません。それは、キリストを信じる信仰によって与えられるのです。

 パウロは、キリストと出会い、キリストを信じる信仰によって、キリストを迫害した罪が赦され、主なる神との関係が正され、救われて、キリストのための使徒、伝道者とされたのです。

 10節で「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」と言います。キリストを得るとは、キリストと復活の力を知ることであり、そしてそれは、キリストの苦しみと死を知ることでもあります。「苦しみにあずかって」は「苦難のコイノニア」という言葉です。

 主イエスご自身、神の子としての身分、神と等しい者であることに固執されず、かえって自分を無にして、僕の身分になられました(2章6,7節)。そして、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(同8節)。

 パウロはここに、神の栄光を見ることが出来たのです。命の希望を持つことが出来たのです。キリストの十字架によって救われたのです。神の義が与えられたのです。そして、使徒としての使命が与えられました。その使命を果たすことがどれほど苦難に満ちたものであっても、それをパウロは「苦難のコイノニア」と呼び、まるで楽しい交わりであるかのような表現をするのです。

 パウロが持った復活の希望、永遠の命の希望は、長くいつまでも生き続けるというものではありません。自分を救い、使徒として召してくださった主イエスと交わり、主イエスのために働き、そうして主イエスと共に過ごすという希望です。そしてその希望は、儚いものではありません。キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わりに支えられた希望です(2章1節)。

 この希望のゆえに、彼は投獄という苦難の中でも、実際に喜びに溢れることが出来たのです。その喜びがフィリピ教会開拓のとき、獄吏とその家族を救い、そして今、問題に直面しているフィリピ教会を励まし続けているのです。

 主よ、御子キリストを信じる信仰により、罪の赦しと救いに与らせてくださり、有り難うございます。御言葉と祈りを通して、甦られた主イエスと出会い、交わり、主を知る恵みの豊かさを味わわせてください。希望と喜びをもって主に仕え、御業に励ませてください。 アーメン