「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」 フィリピ書2章17,18節

 1節に「キリストによる励まし」と「愛の慰め」と「霊による交わり」と並べられているのは、第二コリント書13章13節の「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」を思い出させます。これは、教会の礼拝の中でなされる祝福の祈りの言葉です。二番目の「愛の慰め」が神から与えられることを考えると、これは、三位一体的な祝福の言葉と考えることが出来ます。

 祝福の祈りでは「キリストの恵み」ですが、ここでは「キリストによる励まし」と言われます。「励まし」もキリストから恵みとして与えられると考えられます。特に、1章29節に「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」とあり、フィリピ教会が苦闘している課題があるので、「励まし」と言われているのでしょう。

 そのこととの関連で考えれば、「神の愛」が「愛の慰め」という表現になっていることも、むべなるかなと思われます。これは、愛が豊かにされた信徒たち相互の慰め合いと考えることも出来ますが、しかし、その愛を豊かにお与えくださっているのは父なる神です。

 そして、「霊の交わり」と言われます。霊が信徒に与える交わり、霊において信徒たちに交わりが生まれると考えることも出来ます。「交わり」は「あずかる」と動詞のように訳されることもあります。実際、1章5節では「福音にあずかっている」と訳されていますが、直訳すれば「福音に入る交わり」です。

 そして、「慈しみや憐れみの心があるなら」と述べられています。三位一体的な祝福を受けるということが、慈しみや憐れみの心を持つということにつながると読めばよいでしょう。慈しみや憐れみの心で、その苦しみに対処しよう、勝利しようというわけです。

 「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみ」、これらが神の教会に一致をもたらす要素です。そして、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」(2節)と語られます。それが、一致の要素が満たされた結果、実現するものです。

 6節以下に「キリスト賛歌」と呼ばれる初代教会の賛美歌の一節が引用されています。 これは、教会の一致に向かう「へりくだり」(3節)、他人のことに注意を払う(4節)手本として語られています。それを教会に実現することがパウロの使徒としての喜びでした(2節参照)。

 12節以下の段落に「共に喜ぶ」という小見出しがつけられています。「だから」(ホーステ)と、これからの話をキリスト賛歌に結びつけ、また使徒としての喜びにつなげる形で始めます。最後の言葉が「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(18節)と結ばれています。

 冒頭の17節の言葉の中に、「たとえわたしの血が注がれるとしても」という句があります。ユダヤ教の礼拝では、牛や羊などをいけにえとして祭壇にささげるとき、その動物の血を祭壇の周りに注ぎました(レビ記1章5節など)。

 フィリピの信徒たちの礼拝の際に、パウロの血が注がれるというのは、実際にパウロをいけにえとしてささげるようなことが起こるというのではありません。フィリピ教会の礼拝でこの手紙が朗読される際、パウロは既に殉教の死を遂げているかもしれないということです。

 現在とは違い、手紙を配達する制度はありません。誰かがエフェソからトロアスに行き、そこから海を渡ってフィリピ教会に届けなければならないので、時間がかかります。それまでの間に刑が執行されてしまう可能性があったわけです。

 それでも、自分は喜ぶと言い切ります。パウロの死がフィリピの人々に悲しみを与えないはずはないけれども、彼らが信仰に堅く立ち、ますます勇敢に御言葉を語り伝えるようになると確信しているからです。そして、私たちは死んでおしまいになるのではありません。私たちの本国は天にあり、キリストと同じ栄光ある体に変えてくださるのです(3章20,21節、第二コリント書3章18節)。

 子どもが喜んでいる姿を見ると、親も喜びを覚えるものです。子どもの成長には驚かされることしばしばです。心の成長を知る喜びはまた格別でしょう。心は、嬉しいことよりも苦しいことや辛いことを経験する中で成長するものです。「可愛い子には旅をさせよ」という故事は、そういう精神を教えようとしたものです。

 以前、「初めての買い物」という番組をよく見ていました。親から頼まれた買い物を幼い子どもがやり遂げるというものです。番組のスタッフが各所で見守っているからこそ出来ることではありますが、幼い子どもたちが一人で、時には幼い兄弟同士で、いくつもの困難を乗り越えながら、親から委ねられた仕事を成し遂げていく姿には、毎回、感動させられました。

 苦しみも悲しみも、イエス・キリストを通して喜びに変えられます。子どもが喜ぶ姿で親が喜びを覚えるように、神は、私たちが喜びをもって生きることを望まれます。そのために、キリストが私たちの傍に、私たちと共にいてくださるのです。キリストが共にいて、すべてを喜びに変えてくださる、それが、キリストにある喜びなのです。

 主よ、キリストが私たちのために己を無とし、へりくだって十字架の死に至るまで、従順であられました。それは、私たちにキリストにある喜びをお与えくださるためでした。心から感謝致します。万事を益に変えてくださる主を信じ、常に喜び、どんなことも感謝する信仰に、堅く立たせてください。 アーメン