「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」 フィリピの信徒への手紙1章20,21節

 今日からフィリピ書を読み始めます。13節の「わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」という言葉から分かるように、この手紙は監禁されている牢の中で執筆されました(1章7,13節など参照)。

 パウロが監禁されている場所は、伝統的にローマであると考えられていましたが、2章19節以下の記事から、互いに気遣い、何度も行き来が出来る距離を考えると、ローマやカイサリアではなく、第三回伝道旅行中のエフェソが妥当でしょう(使徒言行録19章1節以下、10節)。そうであれば、この手紙は第二コリント書とほぼ同時期の紀元55年ごろに執筆されたものということになります。

 牢の中で執筆された所謂「獄中書簡」ですが、この手紙の全体の雰囲気は喜びに溢れているので、「喜びの書簡」とも呼ばれています。実際、この短い手紙の中に16回、「喜び」、「喜ぶ」という言葉が出て来ます。

 4節に、「あなたがた一同のために祈るたびに、いつも喜びをもって祈っている」と記されています。祈らなければならない状況があるのです。しかしそれを、しかめっ面をしてするというのではなく、喜びをもって祈るのです。

 それは、6節の言葉どおり、神がフィリピの教会のために善い業を完成してくださると信じているからです。まだ現実のものとはなっていないけれども、必ずそうなると信じているから喜びが湧き上がって来るというのです。

 パウロは彼らのために祈っていた祈りが、9節以下に記されています。パウロはここで、「知る力と見抜く力を身に着けて、あなた方の愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」と祈っています。

 ヘブライ語の用法に従えば、「知る力」と「見抜く力」には、殆ど差はありません。聖書で「知る」という場合、対象を把握するということではなく、信じることであり、愛することであり、また相手の求めに応えることです。

 ですから、知る力と見抜く力を身に着けて、賢く生きることが出来るようにとか、騙されず、誤魔化されずに生きられるようにというのではなく、それを身に着けてあなたがたの愛がますます豊かになるようにと祈るのです。

 ということは、「本当に重要なことを見分けられるように」という祈りは、何が神の御心に適う行動であるのか、愛を基準として判断することが出来るようにと解釈することが出来るでしょう。

 そしてその祈りの目的は、彼らが「清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができる」(10,11節)ためなのです。

 2章17節に「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」と記されています。これは、パウロが殉教を覚悟していることの表われです。

 エフェソで殉教しなければならなくなっても、私は喜ぶと言い切っています。パウロの死は、フィリピの人々に悲しみを与えることでしょう。パウロ自身にとっても、殉教は嬉しい話ではないでしょう。けれども、パウロは喜ぶと言います。それも、フィリピの人々と共に喜ぶと言うのです。

 12節に「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と記されています。「わたしの身に起こったこと」とは、獄に監禁されていることです。普通に考えれば、投獄される、監禁されるというのはマイナスでしょう。少なくとも世間体のよい話ではありません。

 しかも、監禁されて自由に動き回ることが出来なくなるので、福音の前進どころか、後退しかねない状況でしょう。それなのに、「福音の前進に役立った」と言います。そこには常識では計れないことが起こり、福音が人々に伝えられていったのです。ここに、私たちが注目すべきポイントがあります。

 福音を伝えるのに必要なのは、世間一般の評価を得ることやそのために努力することとではありません。パウロは獄中にありながら、否むしろ、獄に監禁されているからこそと言わんばかりに、それが福音の前進に寄与したと言っているのです。

 そうであれば、私たちもそれぞれ今置かれている状況の中で、福音の前進のために用いて頂くことが出来るはずです。つまり、私たちがおかれている状況において神が働かれ、福音を前進させて下さることが出来ると、私たちが信じることが重要なのです。

 冒頭の言葉(21節)の「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」も、2章17節の言葉同様、パウロが獄中で「死」を覚悟せざるを得ない状況にあることを窺わせます。ここでパウロは、生か死かの二者択一を語っているのではありません。むしろ、どちらでも良いのです。

 パウロは、ローマ書14章8節で、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と言い、また、ガラテヤ書2章20節でも、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語っています。

 パウロは絶えずキリストに目を注ぎ続けています。キリストがパウロに使命を与え、生き甲斐を与え、そして喜びを与えているのです。これは、キリストの説く理路整然とした理屈に納得したというようなことではありません。

 たとえば、三浦綾子さんの「塩狩峠」という小説の主人公は、長野信雄という鉄道マンです。彼は、連結器が外れて坂を下り始めた客車を止めるために自分の体をレールの上に投げてブレーキになり、命をかけて乗客を守りました。これは実話で、長野政雄という鉄道マンの犠牲的な行動を、三浦さんが小説化したのです。

 また、「続氷点」という小説には、台風で青函連絡船の洞爺丸が沈没しそうになっている中で、救命具の紐が切れたと泣き叫ぶ一人の女性に向かって、「わたしのを上げます」と言って自分の救命具をはずして与えた宣教師のことを、陽子の父啓造が思い出すという場面があります。啓造をそれを思い出して、今まで、自分はいったい何をしてきたのかと考えるという設定です。この宣教師は実在の、カナダから来ていたストーンという名前の宣教師です。

 このようにして死んで行った人の生き様には、私たちは本当に深い感動を覚えます。それが自分に関係のある人であったりすれば、その感動も一入です。そして、私もそのような生き方、死に方の出来る人間になりたいと思うのです。

 パウロが、「生きるとはキリスト」と言っているのは、彼が甦られた主イエスと出会い、その真心に触れたということではないでしょうか。キリストの十字架は、自分の罪の贖いのためだったと気づいた、悟ったということです。だから、キリストのために生き、キリストのために死にたいと考えるようになったわけです。

 「死ぬことは利益なのです」は、生きるよりも死ぬほうがよいという意味ですが、それは、死によって救いが完成し、常にキリスト共にいることが出来るからです(23節)。けれども、だから早く死にたいとは言いません。それは、生きていれば、「実り多い働きができ」(22節)るからです。

 「実り多い働き」は、「働きの実」という言葉です。つまり、働くことが神からの賜物のように考えているわけです。また、フィリピの教会の人々がパウロを必要としていることを知っています(24節)。それは、「信仰を深めて喜びをもたらす」(25節)ことです。パウロは、自己の願いを実現する生き方ではなく、主キリストと共に隣人のために自分をささげる生き方に価値を見出したのです。

 キリストを信じるとは、キリストがわたしのために自分を犠牲にされたことを素直に受け入れることであり、十字架を負うて我に従えと招く主の御声に従って、隣人に仕える使命に生きる生き方に真の価値、真の生き甲斐を見出すことなのです。

 私たちも、「生きるとはキリスト」と告白しながら、信仰の道筋をまっすぐに歩む者にならせて頂きましょう。

 主よ、私たちの愛が、知る力と見抜く力を身に着けて、豊かにされますように。それにより、何が本当に重要なことかを見分け、重要なことを守り行うことが出来ますように。今、イエス・キリストの恵みにより、主との平和が与えられていることを、心から感謝致します。この恵みと平和が、私たちの家族に、知人友人に豊かに与えられますように。この身を御手に委ねます。御業のために用いてください。 アーメン