「あなたがたは以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」 エフェソの信徒への手紙5章8節

 1節の「神に倣う者となりなさい」と記されている言葉に目が留まりました。「神に倣う」という言い方は、聖書中、ここにしか出てきません。ただ、神がどのようなお方であるのか、どのように言葉を発し、行動されているのかなどを知って、そのとおりに生きようと考えるならば、それは、当然のことながら、誰にも出来はしません。神に倣えと語るパウロ自身も失格でしょう。

 この言葉の前に、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4章32節)と記されています。神が赦されたように赦し合いなさいという言葉から、「神に倣え」という表現が出て来たと考えてもよさそうです。そうすれば、神に倣うとは、互いに赦し合うということになります。

 2節に、「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」とあります。「神に倣え」と語った後で、キリストに倣い、「愛によって歩め」というのですから、神に倣うとはキリストに倣うことであり、キリストに倣うとはキリストの愛の内を歩くということになります。

 「歩む」は、生活すること、生きることを意味します。パウロは、第一コリント書12章31節で、愛のことを「最高の道」と言いました。最高の道を歩くこと、つまり愛によって生きることが、キリストに倣うことであり、神に倣う生活であるということになるのです。

 私たちの心に神の愛を注がれるのは、聖霊の働きです(ローマ書5章5節)。私たちの祈りに応えて、神は聖霊を通して、神の愛をあふれるほどに豊かに注いで下さいます。この聖霊は、私たちに「アッバ、父よ」と呼ばせる霊であり(ガラテヤ書4章6節)、私たちが神の子であり、御国を受け継ぐことの保障なのです(エフェソ書1章13,14節)。

 18節には、「霊に満たされなさい」と語られています。聖霊を通して主の御心を悟り、神に愛されている子供として歩むためには、聖霊に満たされる必要があるのです。神に倣うとは、聖霊に満たされ、その導きに従って生きる生活をすることということです。

 冒頭の言葉(8節)で「光の子として歩みなさい」は、口語訳では「光の子らしく歩きなさい」と訳されています。「光の子らしく」とは「光の子にふさわしく」という意味です。「光の子」とは、私たちキリストを信じる者のことですが、1節では、「神に愛されている子ども」と記されています。神に愛されている子どもとして、愛によって歩むことが、光の子として歩むことであると示されます。

 3節では「聖なる者」と言われ、聖なる者にふさわしく、色々の汚れた言葉やみだらな冗談を避け、むしろ、感謝を表しなさいと勧めます(4節)。つまり、自分の欲に心奪われず、神の恵みに絶えず目を留め、関心を払い、喜び感謝する生活です。

 リビングバイブルは冒頭の言葉を「あなた方の心は以前は暗やみにおおわれていましたが、今は主からの光にあふれています。そのことを態度で示しなさい」と訳しています。「光の子として歩みなさい」を、「そのことを態度で示しなさい」としているわけです。

 この訳語について、「幸せなら手を叩こう」の作者・木村利人氏(元早稲田大学教授、元恵泉女学園大学学長)は、「幸せなら態度で示そうよ」の歌詞が 、リビングバイブルの翻訳に影響を与えたのではないかと仰っていました。

 木村氏は第二次世界大戦終戦後、早稲田大学の学生として参加したフィリピンでのYMCAワークキャンプで経験したことを、詩編47編2節の「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ」という言葉を読んで、「幸せなら手を叩こう」を作詞されたそうです。

 それは、神によって生かされている平和の「幸せ」を「態度に示して」生きていくようにと、私たちは神によって召されていることをフィリピンの友人たちから教えられ、その感謝と感激の体験を帰国途次の船中で作詞したということでした。

 「光の子」に対して、6節に「不従順の者たち」という言葉があります。「者たち」の原語は「子どもたち」です。不従順を「暗闇」と言い、それが以前の私たちの状態だったことを冒頭の言葉は示しています。つまり、神を知らない、主に結ばれていない、不従順な状態を暗闇というわけです。それに対して、神に愛され、主に結ばれた私たちは「光」となっていると言います。

 私は、自分が「光」であるとは思っていませんでした。あらためて、聖書は私のことを、光に照らされている者と言っているのではなくて、「光となっている」と語っていることを心に留めます。

 これは勿論、私たちが自分で光となれるということではありません。私たちが自分で光を放つことが出来るはずもありません。しかし、「光あれ」と言われて光を生じさせることのお出来になる神が、私に「光となれ」と仰せになれば、私は光となるのです。

 光は、自分自身が光であることを認識していなくても良いかもしれません。光の役割は、自分で自分の輝きを認識することではなく、周りを照らして明るくすることです。ただ、人の目を幻惑するほどの強い光はかえって迷惑です。

 雨の降る闇夜の山道を歩いたことがあります。全く光が見えず、這うようにして通った場所もありました。一人で本当に心細くなりました。そろそろと進んでいくうち、遠くにぽつんと窓の灯りが見えたとき、これでなんとか無事に家に帰れると、嬉しくなったことを思い出します。その家の人は、私がその窓の光で元気づいたことを知りません。しかし、私にとってそれは、確かな道しるべでした。

 神は、私たちが神に愛されている者として愛によって生きているとき、あるいはまた、聖なる者として神の恵みに注目し、感謝して歩んでいるとき、私たちを「光」として用いてくださっているのです。

 誰が見ているかは分かりません。どのように用いられているかも分かりません。しかし、その光を通して、「あらゆる善意と正義と真実とが生じる」と言われます。主を信じ、主を愛して進んで参りましょう。

 主よ、あなたは、以前は暗闇であった私たちを「光の子」と呼び、光としてくださいました。光の子にふさわしく、聖霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、あなたに向かって心からほめ歌うことが出来ますように。そして、いつも、あらゆることについて、あなたに感謝することが出来ますように。 アーメン