「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」 エフェソの信徒への手紙3章19節

 3章は、使徒パウロの異邦人伝道にかけたその使命を確認し(1~13節)、読者のための執り成しの祈り(1~19節)と頌栄(20~21節)をもって、手紙前半の教理的な部分(1~3章)をまとめ、後半の実践的な部分(4~6章)へとつなぎます。

 12節で「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と言いますが、「神に近づく」というのは、2章18節に既に語られていた、教会の信仰の主要なテーマです。

 「主キリストに結ばれており」というのは、「エン・ホー:この方(主キリスト)において、この方の中で」という言葉です。キリストという大きな器の中に入れられているような、主イエスという衣を着せていただいているような状況を思い描きます。

 「キリストに対する信仰により」というのは、「ディア・テース・ピステオース・アウトゥー:彼(主キリスト)の信仰によって」という言葉です。これは「キリストの真実のお蔭で」という意味にも、「キリストを信じる信仰によって」という意味にもとれます。その両方の意味を受け止めて、「キリストの真実のゆえに、キリストを信じる信仰に導かれたお蔭で」と読みたいと思います。

 キリストの恵みの真実を味わい、キリストを信じる信仰に導かれ、キリストの内に、キリスト共に住まうならば、私たちははっきりとした「確信をもって」生きることが出来るでしょう。その確信があれば、「大胆に、神に近づくことができます」。
 
 パウロはキリストを信じ、熱心に福音を宣べ伝えました。その結果、何の不自由もない生活が出来るようになったというのではなく、むしろ様々な迫害を受け(第二コリント書11章23節以下)、最後は殉教の死を遂げることになります。

 パウロは牢の中で自由を奪われ、苦しめられていながら、死を目前にしていても、その心はキリストに結ばれて、キリストの真実を感じて、ますますはっきりとした確信に導かれていたのです。鎖に縛られ、番兵に囲まれて身動き出来ないような状態に置かれていても、その心は、大胆に神に近づくことが出来て、平安と喜びに包まれていたのです。

 ローマ総督やアグリッパ王の前で自分の回心の経験に基づき、キリストによる復活の希望を大胆に語り(使徒言行録26章参照)、そして、ローマ皇帝の前での裁判を望んでローマ送りにされたパウロですから(同25章11節)、どこでも誰に対しても福音を語り続け、常に信仰によって喜び、祈り、感謝していたことでしょう(第一テサロニケ書5章16~18節、使徒言行録16章25節参照)。

 14節以下に、この手紙で二つ目の祈りが記されています。これらの祈りを自分のための祈りとして学びたいと思います。「あなたがた」を「わたし」、あるいは「自分の名前」と置き換えて読むのです。

 「どうか御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもって私の内なる人を強めて、信仰によって私の心のうちにキリストが住まわれ、私を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、私がすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超える愛を知るようになり、そしてついには、神の満ち溢れる豊かさに与り、それによって満たされるように」という祈りを神にささげるわけです。
 
 16節で「その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて」と聖霊の力を受けること、17節で「心のうちにキリストを住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」とキリストにあって愛の実践者とされること、19節で「神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、それによって満たされるように」と神の充満を求めるという内容になっています。

 愛を知るということについて、18節に「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」と記されています。

 どんなものも受け入れるという神の愛の広さ、いつまでも愛し続け、顧み続けているという愛の長さ、そして、私たちを清め、天の御国の栄光を授けるという愛の高さ、黄泉にまでくだり福音を伝えられるという愛の深さ、これらは、神の愛から漏れる者など一人もいないということを、明確に示しています。

 そして、愛とはそういうものだと知的に理解するのではなく、まるでその愛の対象が自分一人であるかのように、私に注がれてくるものとして、神の愛を味わうことです。冒頭の言葉(19節)で、「人の知識をはるかに超える愛を知るようになり」と言われるのはそのことです。

 「神の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」という言葉を直訳すると、「神の充満のすべてへと満たされるために」(ヒナ・プレローセーテ・エイス・パーン・ト・プレローマ・トゥー・セウー)となります(岩波訳参照)。これは、キリストの愛を知るとは、神の豊かさの中に浸され、満たされることであると知らされます。

 キリストは、私たちを神の豊かさのすべてを持って満たそうと、私たちに愛を注いでおられるのです。放蕩息子の父が兄息子に、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と語ります(ルカ福音書15章31節)。この言葉を、神はキリストを通して私たち一人一人に語っておられるのです。

 私たちが神の充満のすべてに与り、それに満たされるようにという祈りは、私たちのしたい放題のことが出来るようにということではありません。神のうちに充満しているものは、すべてを受け入れる広い愛、いつまでも変わらない長い愛、そして御国の栄光を授ける高い愛、黄泉にまでくだって福音を伝える深い愛です。

 そしてその愛が私たちに届くように、独り子を私たちの贖いのためにこの世に遣わすという、考えられないほどの愛です。その愛に満たされることが、霊の力を受けて内なる人が強くされることであり、キリストが心の内に住み、愛に根ざし、愛を基とした生活をすることなのです。ここに、三位一体なる神の本質が示されます。「神は愛だからです」(第一ヨハネ書4章8節)。

 この祈りをとおして、神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、それによって満たしていただきましょう。

 主よ、あなたは私たちの内に働く御力により、私たちが求めたり思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえることがお出来になります。教会により、またキリスト・イエスによって、主なる神に栄光が世々限りなくありますように。 アーメン