「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」 エフェソの信徒への手紙2章14,15節

 11節に「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました」とあります。ユダヤ人と異邦人との区別ということですが、私たちは1節の「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」と言われる者でもあります。

 だから、「そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」(12節)と言われるのです。無神論者ということではなく、キリストの福音を知らず、まことの神を信じていなかったということです。

 しかるに「以前は遠くに離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(13節)。「遠くに離れていた」は異邦人、「近い者」はユダヤ人とかんがえられますが、異邦人がユダヤ人になったということは、その違いがなくなったということになります。それはただ、神の深い憐れみのゆえ、恵みによることです(4,5節)。

 17節との関連で、「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる」(イザヤ書57章19節)という御言葉が、「キリスト・イエスにおいて」(エン・クリストー・イエスー:in Christ Jesus)「キリストの血によって」(エン・トー・ハイマティ・クリストゥー:in the blood of Christ)成就したことになります。

 エルサレムの神殿には、いくつもの隔ての壁があり、異邦人とユダヤ人を隔て、ユダヤの女性と男性、一般人と宗教者とを隔てていました。拝殿の中には、祭司だけしか入れませんでした。それは、汚れた者を聖なる場所に近づかせないためのものでした。

 律法の中に、「わたしの住まいに汚れを持ち込んで、死を招かないようにしなさい」という規定があります(レビ記15章31節)。そこで、異邦人の壁、女性の壁、男性の壁などを設けたわけです。

 冒頭の言葉(14節)でこれら隔ての壁を「敵意」(エクスラ:ガラテヤ書5章20節など)と表現しました。ユダヤ人が、律法と割礼のゆえに、異邦人との平和を望まない心は、敵意だというのです。平和の神を礼拝する場所に、敵意という壁があるのは悲しいことです。神の前に、男と女、ユダヤ人と異邦人の差はありません。

 キリストこそ、わたしたちの平和であると聖書は語ります。キリストは、嵐の船の中でも眠ることが出来ました(マルコ福音書4章38節)。そして、嵐を鎮め、凪にされました。また、十字架の死を前にして、弟子たちに「心を騒がせるな」と言われ(ヨハネ福音書14章1節)、そして、「わたしの平和を与える」と語っておられます(同27節)。

 あとに残される弟子たちの動揺を思い遣り、予め約束の言葉を与えておかれたのです。そして、復活された後、「あなたがたに平和があるように」といって、弟子たちにご自身を現されました(同20章19節他)。主イエスは、揺るがない平和を心にお持ちの方であり、そしてその平和をお与えになられるお方なのです(ローマ書15章33節も)。

 主イエスが十字架で死なれたとき、神殿の至聖所の垂れ幕が真っ二つに裂けるという出来事がありました(マタイ福音書27章51節)。それは、聖所と至聖所を隔てていたもので、主イエスがご自分の死によって、その垂れ幕を打ち破り、常に神と出会い、交わりを持つ道を開いてくださったというしるしです。

 それがヘブライ書10章19,20節に、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」と言われていることです。「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(同22節)。

 キリストの豊かな憐れみにより、信仰を通して救われた私たちは、キリストが開かれた新しい生きた道を通って、大胆に神に近づくことが出来ます。神は、私たちの「御父」だからです(18節)。

 神が御父ですから、私たちは神の家族です。キリストの平和が支配している家族なのです。それで、私たちはお互いに兄弟姉妹と呼び交わします。そして、私たち神の家族の平和の交わりの中に、主なる神が共にいて下さるのです(マタイ福音書18章20節、詩編133編)。

 平和の福音を通して、キリストの命に養われましょう。この福音は、使徒や預言者と呼ばれる伝道者たちによって宣べ伝えられました。彼らの伝道を通して、教会が作られ、キリストを信じる信仰が世界中に広げられて来ました。「神の家族」なる教会が、「使徒や預言者という土台の上に建てられています」(20節)と言われるのは、そのためです。

 私たちも、教会の働き、伝道者たちの働きによって、キリストを信じる者、神の家族の一員とされました。ですから、同じようにキリストを必要としている方々に広く福音を宣べ伝え、その恵みを分かち合うキリストの体なる教会、聖なる神殿に、共に建て上げられて参りましょう(21,22節)。

 主よ、平和の福音を土台として、キリストの体なる教会を建て上げることが出来ますように。御霊の導きにより、私たちも告げ知らされた福音を聞き、キリストを信じる者となりました。私たちの教会も、伝道する教会となりますように。主の御業を拝し、賛美溢れる教会となりますように。 アーメン