「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」 エフェソの信徒への手紙1章3節

 今日から、エフェソの信徒への手紙を読み始めます。1節に「エフェソにいる聖なる者たち」という言葉があります。実は、もともと「エフェソ」という地名は入っていなかったようです。主だった古い写本には、地名が記されていないのです。

 エフェソ教会はパウロによって建てられた教会です。この手紙がエフェソ宛に書かれた手紙なのであれば、他の手紙によく記されている感謝の言葉や、誰々によろしくという最後の挨拶の言葉が当然記されているはずです。ところが、そのような言葉が記されていません。

 むしろ、1章15節の「あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き」、3章2節の「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません」という言葉は、著者が宛先教会の信徒たちを個人的には知らないということを示しています。

 そのため、もともとこの手紙は回覧状、公同書簡(Catholic Epistles)として書かれたのではないか、そして、この手紙を受け取った教会が自分たちの名を宛先の抜けているところに書き入れて読んだのではないかと考えられています。

 ということであれば、今日この手紙を学ぶ私たちは、1節のこの箇所に「静岡にいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ」と読むことが許されており、私たちはそのように、自分に宛てて記された手紙として、御言葉を真剣に受け取るべきだと思います。

 冒頭の言葉(3節)では、「ほめたたえられますように」(エウロゲートス)という言葉が一番最初に記されています。語順どおりに直訳すれば、「ほむべきかな、父なる神、わたしたちの主イエス・キリストの」という具合になります。

 そう語った後、賛美する理由を、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」と記しています。「祝福で満たしてくださいました」は、「祝福する」(エウロゲオウ)という言葉です。

 文頭の「ほめたたえられますように」(エウロゲートス)と「祝福で満たして下さいました」(エウロゲオウ)は、一種の語呂合わせになっています。神が私たちを祝福してくださったので、神を賛美すべきだ、賛美は神の祝福に対する応答なのだということを、それによって示しています。

 神の祝福の内容は、4~6節に示されています。それは、私たちを神の子とするために、愛によって選んでくださったということです。

 この選びは、この世界が創造される前にキリストにおいてなされました。天地が創造される以前から、神の子とされるために私たちを選ばれていたというのは、まさに想像を超えた世界ですが、むしろ力点は、天地が造られる前からキリストが神と共に、神の御子として存在していたというところにあります。

 そして、この選びの目的は、「輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(6節)。「輝かしい恵み」(ドクサ・テース・カリトス)は、原文を直訳すると「恵みの栄光」(新改訳)という言葉になります。私たちが神の子とされたのは、神の御旨による一方的な恵みなのです。そのような恵みを授けて下さった神の栄光を、心からほめたたえましょう。

 また、神の祝福は、「キリストにおいて」(4節:エン・アウトー「彼において」)与えられました。ですから、「主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(3節)と言われているわけです。

 キリストにおいて与えられたものが、7~12節に示されます。私たちは、キリストの血によって贖われ、神を知らず神に背いてきた罪が赦されました。過去の重荷が取り除かれ、キリストと共に歩む新しい生活が始まったのです。

 9節に、「秘められた計画」(ムステーリオン)という言葉があります。口語訳は「奥義」と訳しています。奥義とは隠されているものです。神の奥義というのであるならば、それは、人間の誰にも明らかにされるはずがないものでしょう。けれども、神はそれを誰の目にも明らかになるように、すべての知恵と理解とをお与えになったのです。

 秘められた計画が明らかにされたのは、キリストによる贖いの業が成し遂げられたときです。その計画とは、天地万物がキリストのもとに一つにまとめられるということです。言い換えれば、私たちのために贖いの業を成し遂げられたキリストが、天地万物の主となられるということです。

 そして、神の愛によって選ばれ、神の子とされた私たちは、キリストに結ばれて、約束されたものの相続者ともされているのです(11節)。キリストは神の御子として、父なる神のものすべてを相続される権利、資格を持っておられます。私たちには、そのような資格はありません。しかし、子たる身分を授けられて、キリストとの共同相続人なのです。

 そうされた目的は、キリストに希望を置く私たちが、神の栄光をたたえるためです(12節)。驚くべき恵みをお与え下さる主を賛美いたしましょう。

 さらに、父なる神の祝福は、「天のあらゆる霊的な祝福」(3節)と言われます。「天の」も、「霊的な」も、人が作り出すことの出来ない、神がお与え下さる祝福であることを示しています。そして、「霊的な」(プネウマティコス)は、聖霊の働きを思わせます。天からの、聖霊の働きによってもたらされた祝福ということになります。

 その内容が13節に「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(13節)と記されています。神の祝福、キリストによる贖いの業が、「真理の言葉、救いをもたらす福音」として語り告げられたとき、それを私たちが理解し、信じることが出来るように働きかけてくださったのは、「聖霊」なる神です。

 パウロは、第一コリント書12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と記しています。それは、「イエスは主である」と言葉で言えるかどうかということではなく、イエスを主とする生活が出来るかどうかということです。キリストの贖いによって過去の重荷が取り除かれ、キリストと共に歩む新しい生活が始まるのは、聖霊の働きがあるからなのです。

 「約束された聖霊で証印を押された」とは、主イエスを信じてバプテスマを受け、神の子とされたこをを証しするのは私たちではなく、聖霊だということです。この聖霊によって私たちは、神に向かって「アッバ、父よ」と叫びます(ガラテヤ書4章6節)。それは、神の助けを呼び求める叫びであり、そしてまた、神の助けに感謝して、喜びに溢れて神をほめたたえる叫びです。

 こうして、冒頭の言葉が4~14節の主題を提示していることが分かります。そしてそれは、父なる神が御子キリストにおいて示された祝福を、聖霊の働きを通して私たちに悟らせ、信仰の導きを与えて下さったということです。聖霊を通して導かれた信仰により、喜びあふれる賛美を神にささげましょう。

 天のお父様、私たちを愛をもって選び、御子の命をもって罪の呪いから贖い出し、神の子として受け入れ、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださったことを感謝します。絶えず聖霊に満たされて主の御心を悟り、御名をほめたたえさせてください。その力を受けて主の証人となることが出来ますように。 アーメン