「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」 コリントの信徒への手紙二5章1節

 新共同訳聖書は、4章16節から5章10節までの段落に「信仰に生きる」という小見出しをつけています。

 この段落の最初に、「わたしたちは落胆しません」(4章16節)と記されています。実際には、パウロを失望落胆させる出来事、数々の問題が、コリント教会内部で起きていました。もしも、パウロが派遣したテトスの問題解決のための働きが不首尾で、教会が分裂するようなことになっていれば、「落胆しません」とは言えなかったかも知れません。

 その意味でここに「落胆しません」と記すことが出来たのは、パウロの精神力などではありません。それは、テトスを用い、テトスを通して働かれた神の御霊、聖霊のお蔭です(5節参照)。その聖霊がパウロの内に働いておられるので、それで「いつも心強い」(6節)、「わたしたちは心強い」(8節)と言うのです。

 7節の「目に見えるものによらず」という言葉は、4章18節にも「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」とありました。見えないものに目を注ぐというのは、少々不思議な、矛盾した表現です。どのようにすれば、見えないものに目を注ぐことが出来るのでしょうか。

 「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する」(4章18節)という表現から、見えるものとはこの地上のこと、見えないものとは、天上のこと、あるいは死後の世界を指していると考えられます。

 4章16節に「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」と言われています。これは、同18節との関連から、「外なる人」を「見えるもの」、「内なる人」を「目に見えないもの」と言っていることになります。そして、「外なる人」が衰えるというのは、高齢で体が弱ったとか病を患ったというようなことではないのです。

 同17節の「わたしたちの一時の軽い艱難」という言葉は、伝道を妨げる迫害などを想像させます。「衰える」(ディアフセイレオー)は、「破壊する、滅ぼす」という意味もあり、主を信じる信仰により、キリストに従うゆえに迫害を受けて外なる人が衰える、滅ぼされるということです。

 ということですから、「内なる人」が日々新たにされるというのは、精神はいつまでも元気とか、勇気が湧いて来るというようなことでもありません。

 17節に「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とあります。つまり、キリストによって新しくされること、再創造されること、甦りの命に与る、その力をいただくことと言ってよいでしょう。

 ということは、「見えるもの」とは、私たちの肉体を含むこの地上の命のこと、そして「見えないもの」とは、主イエスを信じる信仰によっていただいた永遠の命を指していることになります。

 創世記2章6節の記述によれば、人は、土で形作られたところに神が息を吹き込まれて生きる者となりました。即ち、神の霊が私たちの命、私たちを生かすものであるということになります。生きている者は、周囲の人と関係を持ちます。だから、「人が独りでいるのはよくない」(同2章18節)という表現が出てくるわけで、神は共に生きる、互いに助け合う仲間を創造されたのです。

 命ある者は、呼べば答えます。反応します。亡くなると、呼んでも答えなくなります。アダムとエバが善悪の知識の木の実をとって食べたとき(創世記3章6節)、それによって心臓が止まりはしませんでした(同2章17節参照)。それはしかし、神との関係が壊れたことを意味しました。

 背きの罪のゆえに二人はエデンの園を追放されてしまい(同3章23節)、神と顔と顔を合わせて親しく交わることが出来なくなったのです。そのことを、聖書は「死」と表現していたのです(創世記2章17節、3章23節、ローマ書6章23節参照)。

 永遠の命は、神との交わりに生きるために与えられた、神と関係を回復するための、神の子となる命です。神は霊ですから(ヨハネ福音書4章24節)、目には見えません。神は目には見えませんが、イエス・キリストを信じて御子イエスの命、永遠の命をいただいたときに、神がおられるということは確かなことであると知ることが出来るようになります。

 パウロが冒頭の言葉(1節)で説いているのは、私たちの家のこと、建物のことではなく、自分の体、そして命のことです。この地上における体と命を、「地上の住みかである幕屋」と表現しています。

 幕屋とはテントのこと、移動式住居のことです。それは一時的な、仮の宿です。ということは、この「幕屋」という表現は、私たちの地上の命は仮のものであるということを示していることになります。同じ考えが第二ペトロ書1章13節で、「わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています」と表現されています。

 この体、そしてこの命が仮の宿であるとすれば、本当の住まいはどれか、どこにあるのかということになります。それは、神によって備えられた建物、人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかと記されています。神が私たちの本当の体、永遠の命を、天に準備しておられるということです。

 パウロは、この「住みかを上に着たい」(2節)と、今度は着物のイメージで語ります。新しい着物を着せていただくために、そのことに望みをかけて、今この地上で苦しみ悶えているというのです。しかし、天における永遠の住みかに行き、新しい体を上に着るというのは、単に早く死んで天国に行きたいということではありません。

 それは4節で、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません」と語っている言葉で分かります。パウロにとっては、死んだら新しい命をいただくことになるというものではないのです。

 そうではなくて、地上の幕屋を「脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」(3節)と言い、また、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たい」(4節)と語っている言葉から、彼にとっての「死」は、永遠の命に飲み込まれることなのです。

 ということは、地上の体を脱いだ裸の魂、裸の命というようなものはありません。今の苦しみは、命に飲み込まれるためのものであって、苦しみから逃れて新しい命を受け取るというのではないのです。

 そのことをパウロは、主イエスの十字架を通して学びました。主イエスは、十字架の苦しみから逃れるために死に、天に昇られたのではありません。そうではなく、十字架の苦しみを通して私たちを贖い、救う道を開かれました。十字架の死に至るまで従順であられた主イエスを、神は高く挙げ、主として、御自分の右に座らせられたのです(フィリピ2章7~10節)。

 私たちが、「イエスは主なり」と告白出来るのは、イエスを信じる信仰が与えられたからであり、それは聖霊の導きによることでした(第一コリント書12章3節)。パウロは、私たちに聖霊の導きが与えられているということが、天から与えられる住みかを上に着る保証であると言いました(5節)。

 ですから、私たちのこの地上の命が終わる日、死ぬべきものが命に飲み込まれるその日まで、イエスこそ全人類の救い主、私たちの主であるということを、周りの人々に、そして地の果てまで、しっかりと証ししていきましょう。

 主よ、私たちは神の国の住民となる資格を持ってはいませんでした。私たちのためにキリストが死んで、真理であり、命である道を開いてくださいました。それにより、主のもとへ行くことができるようになりました。この福音のために命がけ働いたパウロに倣い、私たちも同胞に広く語り伝えることが出来ますように。 アーメン