「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」 第二コリント4章7節
 
 冒頭の言葉(7節)に、私たちは土の器の中に宝を持っていて、その宝には並外れて偉大な力があること、それは、その力が私たちから出たものでないことが明らかになるためだとあります。ここから学びます。
 
 先ず、「土の器」です。私たちは土の器であると読むことが出来ます。神は人を土で創られました。人間は土で創られた神の被造物です。土から創られた者ですから、やがて土に帰ります。決して永遠に生きることは出来ません。しかし、人間は、神が意味と目的を持って創り出したものです。何の目的もなく、意味もなく、偶然に出来たものではありません。

 しかし、器も色々です。貴いことに用いられる器もあれば、日常のことに用いられる器もあります。高価な器もあれば、廉価な器もあるでしょう。いずれにしても、器として重要なのは、その器が使う人にとって、使い勝手がよいかどうかということです。

 もし器が、私は価値が高い器だから、そんなことに使われるのはイヤだと言えばどうでしょう。逆に、私は安価な器だから、人前に出るようなことはしたくありませんといえばどうでしょう。選んだ人を困らせ、恥じ入らせ、そして、二度と選ばれなくなる、用いられなくなってしまうでしょう。器の価値は、器が決めるのではなく、器を用いる人が決めるのです。

 パウロは、ローマの信徒への手紙9章21節でも「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」と言い、さらに「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」(24節)と語っています。
 
 ここには、パウロ自身の経験がにじんでいます。パウロは、ある時、自分は母親の胎内に形作られる前から、異邦人に福音を伝える者として神に選ばれていた、と語ったことがあります(ガラテヤ書1章15節以下)。主イエスの福音を世界中に伝えるように、神によって予め選ばれ、創られたのだというのです。

 しかし彼は、主イエスの福音を伝える者になるどころか、かえって主イエスの弟子たちを迫害し、福音宣教を妨げる者になりました。まさに、神の意に添わない、神の怒りが注がれる怒りの器になっていたのです。

 しかるに神は、そのような者を憐れみをかけてくださいました。「憐れみの器」とは、神の憐れみをいただいた器ということです。そうして、主イエスの福音を世界中に伝えるようになったのです。キリストによる、パウロという土の器の再創造と言ってよいでしょう。

 神がパウロを異邦人に福音を伝道する器として創られた。しかしパウロは、そのように創られた器を自らの手で壊してしまった。キリストは、ご自分と引き替えにして、パウロをもう一度ご自分の福音を伝える者として再創造されたわけです。神は、キリストの十字架の血と聖霊の火を通して、清い霊、新しい心を創ってくださいます。
 
 確かに土の器は壊れやすい。8,9節に「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、うち倒されても滅ぼされない」とありますが、土の器は、圧力をかけると割れてしまいます。壊れてしまいます。途方に暮れて失望します。虐げられると、神は自分を見捨ててしまったのだと考えまるでしょう。うち倒されると、起き上がれません。

 実際、1章8節でパウロは「わたしたちは、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」と言っています。

 壊れやすい器、そして壊れたら、自分でもとに戻すことが出来ない土の器が、どうして「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず」(8節)と言えるのでしょうか。

 器は、ものを入れるものです。器のうちにあるものが重要なのです。パウロは、私たちは宝を納めていると言っています。宝が器の中にあるというのです。この宝に力があるのです。それは半端な力じゃない。「並外れて偉大な力」と書かれています。口語訳では「測り知れない力」と訳しています。

 測ることが出来ない。けた外れな、人間の想像を超えた力があるというのです。それは、「光あれ」と言われると、光が出来る(創世記1章3節)という力。一言で無から有を生み出す力。何もないところに、材料なしで、ものを作り出すことが出来る力です。科学で証明出来ない、超自然の力です。

 6節に「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました」とあります。かつて光を創られた神が、光を失った人間のために、キリストを通してその光を再創造される。その光がキリストの顔の輝き、神の栄光を悟らせると言います。

 信じられなかった主イエスが、信じられるようになります。イエス・キリストを信じた時、イエス・キリストは私たちの心の中に入ってこられました。私たちの内にキリストがおられる、それは永遠の希望を与えます。「あなたがたの内におられるキリスト、(それは)栄光の希望です」(コロサイ1章28節)とあるとおりです。

 また、聖霊の賜物を頂きました。聖霊を通して、わたしたちの心に神の愛が注がれてきます。神の愛は、神の憐れみは測ることが出来ません。神の愛が私たちを生かします。愛は恐れを取り除きます。希望が与えられます。その希望は失望に終わることがありません。また、聖霊は私たちに力を与えます。

 これは理屈ではありません。本当にそのような愛が、希望が必要です。それは、自分の家庭や職場、学校、そして地の果てまで、どこでも、誰に対しても、キリストの証人となるためです。

 そして、この力は、キリストを死者の中から甦らせました。復活の力、再創造の力です。14節に「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」と記されています。蘇生ではありません。神の子どもとなる霊の体に生まれ変わるのです。

 これらは神の力です。「並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」というのですから、神に期待し、神を信頼して祈るのです。神がその並外れて偉大な力を働かせてくださるように。私たちの考えでは測り知ることが出来ない力を働かせてくださるように。いまだかつてなかったような恵みの御業が起こされるように。
 
 そのために、先ず何よりも、御言葉を読みましょう。信仰は聞くことから、聞くことは、キリストの言葉からです。そして祈りましょう。御言葉がこの身になりますように、お言葉ですからやってみましょうと。そして、結果を主に期待しましょう。

 主よ、欠けだらけの土の器である私たちに霊の賜物を与え、福音宣教の業を託されました。御言葉に立ち、信仰によって前進させてください。私たちの内に光が輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟ることが出来ますように。教会の宣教の御業を通して多くの人が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになりますように。御名が崇められますように。 アーメン