「それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」 ローマの信徒への手紙9章23節

 9~11章には、神の民イスラエルに対する神の計画が記されています。神はイスラエルを選び、御自分の宝の民とされました(出エジプト記19章5節、申命記7章6節)。それはただ、神の愛のゆえ、深い憐れみのゆえです(申命記7章7,8節)。

 しかるにイスラエルの民は、神から離れ、見捨てられた者のようになっています。3節でパウロが「兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」と言っているのは、自分の同胞がキリストの恵みを受け取ろうとしないので、神から見捨てられた者となっているからです。それがパウロの痛みでした(1節)。

 21節以下に、焼き物師と焼き物を例にして、神とユダヤ人、異邦人との関係を説いています。ユダヤ人は貴いこと、つまり神に仕える者として造られたのですが、彼らは神の御心に背いて罪を犯しました。聖書が言う罪とは、いわゆる犯罪ではありません。神に背くことであり、人と人が互いに背き合うことです。

 「罪」という字は、竹網で鳥を捕まえるという文字ですが、それが 罪という意味になったのは、「非」の字に関わりがあるのでしょう。「非」は、鳥が羽を広げたかたちです。左右の羽が互いに反対方向を向いているということで、背くという意味になり、さらに否定的な意味を持つようになったようです。

 21節で「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に作る権限があるのではないか」と言います。イザヤ書64章7節にも「しかし主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業」とあり、父なる神が私たちを思いのままに作られたという信仰を言い表しています。

 優れた陶工が作るものは、日常生活で使う茶碗でも大変高価です。父なる神が作られた器は、どのような価値になるのでしょうか。それは価高く貴いものです。そして神は、ご自分の作られた器を愛されます。あなたも私も、神に造られたゆえに、「わたしの目に価高く貴く、わたしはあなたを愛する」と神が言われるのです(イザヤ書43章4節)。

 この器を誰がどのように用いるかで、用いられ方、取り扱われ方が全く変わってしまうかもしれません。器の価値を知らない者は、それにふさわしい取り扱い方をしないでしょう。時に、とてもひどい用い方をするのではないでしょうか。

 私たちは自分が自分の価値を見失っているとき、自分自身を粗末に扱い、ひどく傷つけてしまいます。そういう私が他者を大切に出来るはずもありません。心無い言葉や態度で周りの人々をどれほど傷つけてしまったことでしょうか。しかも、そのことにさえ気づかずに歩んできたのです。

 神様にしてみれば、もっと美しい輝きを放つように造ったはずなのに、どうしてこんなに汚れてしまったのだろう、歪んでしまったのだろう、その上、用いられ方がご自身の計画と全く違っているというところでしょう。残念ながら、こうなってしまえば、叩き壊すほかはないと思われても仕方ありません。22節の「怒りの器として滅びることになっていた」というのは、そのことでしょう。

 しかしながら、神はそのような私たちを寛大な心で耐え忍んでくださっただけでなく、冒頭の言葉(23節)の通り「憐れみの器」として選び、豊かな栄光をお示しくださるというのです。

 主なる神はその憐れみの器として、異邦人からも召し出されました(24節)。それを、ホセア書2章1,25節を引用して説明しています。また、イスラエルの民についてはイザヤ書10章22,23節、1章9節を引用して、「残りの者が救われる」というのが、「憐れみの器」として選ばれたことだと示されます。

 器が憐れみの力を持っているのではありません。罪に汚れ、歪んでしまった私たちに神の憐れみを注ぎ、御子イエスの血で洗い、御霊によって新しく作り変えてくださるということ、そして、神の憐れみを「憐れみの器」として選び、整えた私たちを通して、人々にその憐れみを届けさせようとしておられるのです。

 それは、主なる神がアブラハムを「祝福の源」として選び、祝福して(創世記12章2節)、「あなた(アブラハム=イスラエル)を祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(同3節)と言われているのと同様のことでしょう。

 その憐れみを一番最初に味わうのは、私たち自身です。叩き壊されて当然の「怒りの器」を、「憐れみの器」としていただいたのは、神の憐れみ以外のなにものでもないからです。

 思えば、器は作ってくださった陶工の意思に従い、主の御手に自らを委ねて用いていただいているときが一番幸せでしょう。何しろ、器は用いられてこその存在だからです。どんなことにも間に合うオールマイティーの器でなくてもいいのです。高価で取引されるような道具、器でなくてもよいのです。用いる方にとって、使いやすい器であればよいのです。

 かつて、マザー・テレサが「神の愛の宣教者会」という新しい修道会の設立認可を求めて、バチカンから遣わされて来た神父に、「私は、神が手に持つ小さな鉛筆です。文字を書くのは神ご自身です」と語りました。それを聞いた神父は、「だれが神の鉛筆を止めることが出来るでしょうか」といって、新しい修道会の設立を承認されたそうです。

 その鉛筆で、どんなに素晴らしい文章が紡ぎ出されたことでしょう。ただ、マザーは自分のことを「神の手の中の一本の鉛筆」と呼び、すべて神がなさったことと謙虚に語り続けておられました。だからこそ、マザーを通して神が偉大な御業を成し遂げられたのです。

 貴いことであろうが、貴くないことであろうが、神が用いてくださるのであれば、どんなことでも感謝です。神に用いられることを喜んで、一つ一つ忠実に従っていくときに、神は私たちを思いがけない貴いことに用いてくださるでしょう。小事に忠実な者は大事にも忠実だからと言われているからです。

 主よ、私たちはあなたの御手の作品です。しかし、長い間、作者の御心も知らず、自分勝手に歩んでいました。ユダヤ人が福音を拒んで頑なになったとき、神の憐れみが異邦人に開かれ、私たちにもその憐れみが届きました。神に召された憐れみの器として、周りの人々に神の恵みを届けることが出来ますように。御旨のままに私たちを用いてください。御心がこの地になされますように。 アーメン