「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」 ローマの信徒への手紙8章26節

 今日は、ローマ書8章からの学びです。ここには、イエス・キリストによる救いの恵みを、四つの視点から語り、そして、最後に頌栄をもって結んでいます。

 キリストの救いの四つの恵みとは、第一に罪からの解放(1~4節)、第二は罪の結果である死からの解放(5~11節)、第三は神の子とされる恵み(12~17節)、そして第四が共同の相続人の恵み(18~30節)です。最後の頌栄(31~39節)において、神の愛を喜びをもって賛美しています。

 18節に「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」とあります。パウロはここに、「現在の苦しみ」と「将来わたしたちに現されるはずの栄光」を対比して、栄光の大きさから、現在の苦しみは取るに足りないと言い表しています。

 パウロは、「現在の苦しみ」はその重い栄光に与るために通らなければならない道なのです。17節に「キリストと共に苦しむなら」という言葉があります。これは、私たちを救ってくださるキリストご自身が苦しまれていることを示していますし、キリストと苦しみを共にすることで、キリストが受けられた栄光に与るのだと言っているのです。

 であれば、その苦しみは、早く逃れたい、早く解放されたいと願う種類のものではありません。フィリピ書1章29節に、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と記されています。

 「苦しむこと」が「恵みとして与えられている」とは、神様が苦しみをプレゼントしてくださったということでしょう。そしてパウロはこの賜物を喜び、フィリピにいる信徒たちにも、同じプレゼントが与えられていることを喜んでいるのです。

 コロサイ書1章24節で「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と言い、続く25節で「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」と語っています。

 主イエスを信じる者は誰でも、罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられ、救いの喜びを味わうことが出来ます。しかしながら、福音を聞いた者がすべて、すぐに主イエスを信じるというわけではありません。キリスト教に反対する人もいます。また、まだ福音を聞いたことのないという人が、世界中にたくさんいます。そのための苦労を「あなたがたのための苦しみ」というのでしょう。

 また、福音宣教の務めをもって「教会に仕える者となった」ということは、教会の責任者、牧師のような務めについたということであり、そこにも様々な苦労があるということです。人それぞれ、様々な悩み、苦しみをお持ちです。様々な悩み苦しみ、課題を持っておられる方々と出会い、交わり、そうした方々に神の御言葉を伝えていく務めを果たすというのは、苦労なしに出来るものではありません。
 
 パウロはそうしたことを思いながら、しかし、その苦労をすることは、自分にとって喜びなのだというのです。というのは、その苦労を通して、苦しみを通して、主イエスがそこに働いておられるということを知るようになるのです。

 フィリピ書3章10,11節に、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とあります。ここに、「その苦しみにあずかって」とありますが、「あずかる」という言葉は、その原語は、「コイノニア(交わりfellowship)」という言葉です。苦しみの交わり、苦しみによる、苦しみを通しての交わり、苦しみを共に味わい、苦しみを通して互いに共感し合う。

 福音を宣べ伝えていく苦労、他者に仕え、教会に仕える苦労を通して、イエス・キリストの十字架の苦しみを知る、その苦しみに連なる、つながるというのです。そして、この苦しみを通して、十字架の救いとはどういうものか、主がお与えくださる命とはどういうものか、そのことを知った。もし自分が苦しまなければ、イエス・キリストを知ることが出来なかった、救いが分からなかったというのです。

 主イエスが、罪と死の力を打ち破り、輝く栄光のお姿となって、パウロの前に姿を表してくださいました。その主の栄光のお姿を思うとき、あの主の栄光の姿にあやかることが出来るのであれば、確かに今の苦労は取るに足りないと、パウロは思ったのです。そう思った根拠、それを保証するのは、神の霊、御霊です。

 14~16節に「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と記されています。

 私たちには聖霊、神の霊が与えられています。御霊は、神の子として栄光を受けることが出来る保証なのです。今、神様に向かって、「主」と呼び、また「父」と呼ぶことが出来るのは、御霊の働きですが、それはどんなに大きな恵みであり、喜びでしょうか。

 私たちが神に祈りをささげ、神様と通じ合う喜び、神が私たちの祈りを聞いてくださる、その感動を味わうことが出来た喜び、それを私たちにお与えくださるのが、神の御霊なのです。その霊が、私たちが神の子であることを保証してくださるのです(ガラテヤ書4章6,7節、エフェソ書1章13,14節)。


 冒頭の言葉(26節)に、「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」とあります。

 ここで、「助けてくださいます」(シュナンティランバノー)という言葉は、三つの言葉が組み合わされた合成語です。一つ目は「共に、一緒に」(シュン)、二つ目は「に代わって、のために」(アンティ)、そして三つ目は「取る、持つ」(ランバノウ)、それが一つになって、「助ける」(ルカ10章40節では「手伝う」)と訳される言葉になっているのです。

 「共に」と、「代わって」と、「持つ」。「共に持つ」、「代わって持つ」。神様が私たちの重荷を共に担って下さる、代わって担って下さる。それは大きな助けであり、慰めです。

 小さな子どもに荷を持たせます。持つ力がまだ十分ではないので、片方を親が持っています。いえ、実際には殆ど親が持ってやっています。そうして運び終わったときに「偉かったね、重い荷物をよく持てたね、助かったよ」といって褒めてやると、子どもはそれで自信をもって「今度は一人で持つ」というようなことになりますね。

 聖霊が私たちに寄り添い、弱い私たちのために、一緒に重荷を担ってくださる、代わって持ってくださいます。28節に「万事が益となるように共に働く」という表現がありますが、これは続く29節で「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」と言い、私たちの苦しみ、呻きを聖霊が神の子の栄光に変えてくださると教えているのです。

 つまり、御霊が私たちの苦しみを引き受けることで、それが「産みの苦しみ」(22節)となり、それで、「万事が益となるように共に働く」ことを知るというわけです。

 日々、私たちと共におられ、私たちの内におられる主イエスを頭として仰ぎ、御言葉に従って主と共に歩みましょう。

 主よ、今日もあなたが私たちの前を歩み、しんがりを守り、上から恵みを注ぎ、御手をもって下から支えてくださること、私たちと共に、私たちに代わってその重荷を担ってくださり、その打ち傷によって私たちを癒してくださった主が、私たちを慰め、私たちを励まし、私たちを助け、導き、祝福してくださっていることを覚えて、感謝致します。いつもあなたの御言葉に聞き、あなたの御言葉に従って歩みます。私たちの歩みを祝してください。御名が崇められますように。 アーメン