「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝致します。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」 ローマの信徒への手紙7章25節

 1節以下の段落で、律法は人を生きている間だけ支配するものであることを(1節)、「結婚の比喩」をもって説明します(2節以下)。キリストへとバプテスマされたキリスト者は(6章3節)、その死に与りました(同4節)。だから、「キリストに結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています」(4節)というのです。

 律法に対して死んだパウロは、律法から解放されました。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で主に仕えるようになっています(6節)。

 7節以下、パウロは律法に内在する罪の問題に論を進め、自分の中に、聖なるものであり、また霊的なものである神の律法を喜ぶ心の法則と、それに反し、それと戦ってパウロを虜にする罪の法則が働いているのを見出しました(22,23節)。というのは、自分の望む善は行わず、望まない悪を行っているからです(19節)。

 パウロはここで、善を行う意思はあるけれども、実行力がないと言っているわけではないと思います。というのは、「律法の義については非のうちどころのない者でした」とフィリピ書3章6節に記しており、それはファリサイ派の一員として歩んでいた当時のパウロの自負であったと思います。

 ですから、望む善は行わずというのは、自分では善を行っているつもりだったが、実際は悪を行っていたことを知らされたということではないでしょうか。パウロは、イエス・キリストが神を冒涜しているとして、キリスト教徒を迫害していました。それは、神に対する熱心からとった行動でした。しかし、それこそが神に敵対する悪であったわけです。

 人は自ら罪を行いたいとは思わないものでしょう。エデンの園でアダムとエバが罪を犯したのは、彼らがそうしたかったからではありません。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という戒めが与えられていましたが(創世記2章17節)、それに背きたいと考えてはいませんでした。

 ところが、その実を食べても決して死ぬことはない、神のように善悪を知るものとなると蛇に唆されました。木の実を見るとおいしそうで、確かに賢くなれそうだと思われて、とうとう木の実に手を伸ばし、取って食べてしまいました(同3章1節以下、6節)。「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました」とパウロが8節で語っているのは、そのことでしょう。

 パウロにとって、「あらゆる種類のむさぼり」とは、どのようなものでしょうか。パウロはフィリピ書3章5,6節に「生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」と語っています。

 それはパウロの誇りであり、肉の頼りとするところでした。人が羨むような経歴を持ち、誰よりもその道に精進していたのです。けれども、それは神に栄光を帰すためではなく、栄光を我が物とする誘惑から自由ではなかったのです。信仰に熱心であるということさえ、パウロにとって「むさぼり」の対象だと気づかされたわけです。

 キリストを信じる信仰に導かれたパウロは、それまで誇りとしていたものを塵あくたと見なすようになりました(フィリピ書3章8節)。キリストを知ることを妨げ、ゆえになすべき善をなし得なかったからです。キリストを信じた今、神の霊によって礼拝し、主イエスを誇りとする者となりました。

 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(24節)とその深い嘆きを吐露したパウロは、一転、冒頭の言葉(25節)で、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と、感謝を口にしています。罪の法則の内に虜にされていたパウロを、イエス・キリストがその救いの御業を通して解放してくださったからです。 

 私たちも絶えず罪の誘惑にさらされています。サタンは、主イエスさえも誘惑しようとしました。しかし、主イエスはサタンに打ち勝たれました。御言葉によってあらゆる誘惑を退けられたのです。

 私たちと共におられ、内にいて下さる主イエスを信じ、その御言葉に耳を傾けましょう。心のうちに御言葉を豊かに宿らせましょう(コロサイ書3章16節)。御言葉に絶えずとどまりましょう(ヨハネ伝8章31節)。そのとき、私たちは真理を知り、真理は私たちを自由にします(同32節)。

 真理とは、主イエスご自身であり(同14章6節)、その贖いの御業によって罪の呪いから解放していただいたのです(同8章34,36節)。

 主よ、日々御言葉をくださって有難うございます。御言葉によって御旨を悟り、聖霊に満たされ、私たちの体をとおして主の栄光を表すことが出来ますように。世界中に立てられているキリストの教会を、その教会を形作りキリスト者一人一人を豊かに祝福してください。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン