「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」 ローマの信徒への手紙6章23節

 6章には、古い自分(自我)に死に、新しい命に生きることが、バプテスマ論(1~14節)と奴隷制の比喩(15~23節)をもって語られます。

 バプテスマは、死んで葬られるという姿を表すと同時に、新しい命に生きる者となったことを表しています。「キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた」という言葉が3節にあります。

 「キリスト・イエスに結ばれる」とは、原文では「キリスト・イエスの中へと(エイス・クリストン・イエスーン into Christ Jesus)」という言葉で、キリストの中へとバプテスマ(浸される)されるということから、「キリストに結ばれる」という訳が出て来たのでしょう。

 キリストに結ばれた者は、キリストと共に「死にあずかる」(3節:エイス・トン・サナトン into death)ものとなり、そして、キリストと共に「新しい命において」(4節:エン・カイノテーティ・ゾーエース in newness of life)生きることになります。

 そのことを、8節でもう一度、「わたしたちは、キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と語っています。そして、「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです」(10節)と言います。

 死んだ者は、罪を犯すことがありません。ゆえに、「罪に対して死んだ」という表現がなされます。罪との関係が永遠に切れたということです。一方、「神に対して生きる」というのは、キリストに結ばれて復活に与った者は、神との関係が永遠に切れないということになります。
 
 このようにずいぶん細かい説明がなされているのは、パウロの福音を誤解する人がいたからです。1節に、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」という疑問文があります。これは、こういう疑問を抱く人が少なからずいたことを想像させます。

 行いによらず、信仰によって義とされるなら、好き勝手してもいいじゃないか。そのほうがもっと恵みが分かるんじゃないかというような誤解に陥った人、あるいは敢えて曲解して、自分の欲にまかせて放縦に生きようとした人がいたのではないでしょうか。しかしながら、それは間違いです。愚かなことです。

 「私には劇的な変化を伴う入信体験がない、そういう体験をする人が羨ましい」といった言葉を耳にすることがあります。それは、放蕩息子の兄のように真面目に生きるよりも、弟息子のように親不孝をするほうが、親のありがたみが深く分かるというような考え方ではないでしょうか(ルカ福音書15章11節以下参照)。

 確かに、親のありがたみがよく分かったほうがよいに決まっています。だからと言って、罪を犯したほうがよいのでしょうか。放蕩息子の兄は、真面目だったから親のありがたみが分からなかったのではありません。彼も、弟と同様、親のありがたみが分からない罪人だったのです。

 にも拘らず、兄は父親と一緒にいて、弟のように食べ物に困ること、飢えることはありませんでした。それこそ、親のありがたみではありませんか。親を失ってからそれに気づいても、恩返しが出来ません。あのたとえ話は、兄息子に父親のありがたみを悟らせるために語られているのです。

 「恵みが増すように罪の中にとどまる」というのは、利己主義であって信仰ではありません。神は、私たちを罪の中にとどまらせるために独り子を贖いの供え物としたのではありません。キリストと共に新しい生活をさせるためです。神が罪人の私たちに恵みを与えるために支払われた犠牲の大きさを思えば、どうして、「罪の中にとどまるべきだろうか」という質問が出て来るでしょうか。

 16節に「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」と言います。

 神の愛を受け入れ、神の子として神の前に立つことが「義」とすれば、「罪」とは、欲に引きずられて神の愛に背を向け、自分勝手に行動して神を悲しませることです。それを罪の虜、罪に仕える奴隷と言っています。

 20節に「罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした」とあります。「自由の身」は良さそうな表現ですが、「自由」を公言しながら、清く正しく生きる人がどれほどあるでしょうか。

 実際には、パウロが言うように、「義に対して自由」、義と結ばれていない、即ち、義のない生活をしているということです。むしろ、義に生きようとしても、罪に縛られてそれができない状態であるといってよいでしょう。その状態にあることを、「義に対しては自由の身」というのです。岩波訳が「義とは無縁な者」と意訳しています。

 冒頭の言葉(23節)で「罪の支払う報酬は死」と言いますが、それは、肉体の死とは別のものです。死ぬと、呼びかけに応えなくなります。神からの呼びかけに応えない魂、その愛の招きに背を向けるのは、神から切り離された、霊的に死んでいるというのです。

 罪は私たちに「死」という給料を支払います。しかしながら、そこに神が介入され、「永遠の命」を「賜物」(カリスマ)としてお与えくださいました。 「わたしたちの主キリスト・イエスによる」は、「キリスト・イエスの中にある」(エン・クリストー・イエスー・トー・キュリオー・ヘモーン in Christ Jesus our Lord)です。

 イエス・キリストがご自身の命をかけて開いてくださった「永遠の命」の道を、主の僕として歩ませていただきましょう。 

 主よ、あなたは私たちに、永遠の命という、はかり知ることの出来ない尊い価値のある賜物を与えてくださいました。それは、主キリスト・イエスの命という代価で買い取られたものだからです。キリストの死によって罪と死の呪いから解放された者として、主に従い、聖なる生活の実を結ぶことが出来ますように。 アーメン