「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」 ローマの信徒への手紙1章16節

 ローマの信徒への手紙は、パウロが第三回伝道旅行でコリントに滞在していたとき(紀元56年ごろ、使徒言行録20章1~3節)に書かれたと考えられています。

 パウロは、キリストの名がまだ知られていないところで福音を告げ知らせようと、熱心に務めていました(ローマ書15章20節)。3度の伝道旅行で、地中海の東側地域の伝道は終止符を打ち、これから西側地域、ヨーロッパ西端のスペインにまで、キリストの福音を告げ知らせたいと計画を立てています(同23,24節)。

 そこで、拠点をシリアのアンティオキアからローマに移そうと考え、何度もローマ行きの機会を伺ってきましたが、これまで果たせませんでした(1章13節)。そこでまず自己紹介を兼ねて、ローマ訪問が実現するように祈って欲しいと、手紙を書いたわけです(15章32節)。

 冒頭の言葉に、「わたしは福音を恥としない」とあります。なぜ、「福音を誇りとします」ではなくて、「福音を恥としない」と言うのかという疑問を持ちます。

 この言葉の背景には、「福音を恥とする」という人々がいることを伺わせます。それは、十字架につけられたキリストのことをつまづかせるものと考えるユダヤ人や、愚かなものと考えるギリシア文化の教養人たちです(第一コリント書1章23節)。

 パウロ自身も、かつては福音を恥とする者であり、キリスト教会の撲滅のために迫害の先頭に立っていました。ところが、ユダヤの選民意識やギリシアの文化・教養によって愚かとされたキリストの福音こそ、「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」と知ったのです(16節)。

 新約聖書において「救い」(ソーテーリア)とは、「罪や死、そして終末的審判からの神による救出」を意味しています。その「救い」は、「神の力」によって「信じる者すべて」にもたらされます。ユダヤ人とギリシア人などの区別はありません。あらゆる人に例外なく与えられます。 

 パウロはそのことを、聖書を研究したり、神学を究めて悟ったのではありません。クリスチャンを迫害してダマスコという町に行こうとしていたとき、復活の主イエスと出会い(使徒言行録9章1節以下)、そこでキリストを信じる者に変えられました。

 17節に「福音には、神の義が啓示されています」とあります。「神の義」は、「神との正しい関係」という意味で、「救い」と同義といってよいでしょう。「啓示される」(アポカリュプトー)とは、「覆いがはずされる」という意味の言葉です。主イエスと出会ったとき、彼の心にかかっていた覆いがはずされたのです。 

 使徒言行録には「目からうろこのようなものが落ちた」(9章18節)という表現があり、それは彼の視力が回復したということですが、心の眼が開いたことをも示していると言ってよいでしょう。そのときに、キリストの「福音」(エウアンゲリオン)が「救いをもたらす神の力」であることを知ったわけです。

 キリストの福音が「救いをもたらす神の力」であるとパウロが語っているということは、パウロが熱心に信奉していたユダヤ教の律法の行いによっては、彼は救われなかったということです。だから、キリストの福音こそ、救いの喜びを与える神の力であることを、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも告げ知らせることに努めて来たのです(14,15節)。

 15節の「福音を告げ知らせる」という言葉はエウアンゲリゾマイという一つの単語で、「喜ばしい(エウ)知らせの使い(アンゲロス)になる」という意味です。「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたい」と言っていますが、ここで「あなたがた」と呼ばれているのは、ローマ教会の信徒たちです。

 パウロにとって「福音」とは、一度聞いて信じればそれで終わりというようなものではなく、何度でも聴いて信仰の喜びに与り、「福音」に生きること、更にその喜ばしい知らせの使者になることなのです。

 主よ、かつて福音を恥とし、愚かとしてキリスト教徒を迫害していたパウロが、福音によって救われ、福音に生きる者とされ、さらに比類なき伝道者となりました。そこに、神の力があります。私たちも、同じ福音によって救われました。繰り返し福音を聴き、神の力を受けて人々に信仰の喜びを告げ知らせることが出来ますように。 アーメン