「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。」 使徒言行録5章3節

 エルサレム教会では、神を畏れる思いが支配し、人々は心も思いも一つになり、一人も持ち物を自分のものだといわず、すべてのものを共有にしていました(2章43~45節、4章32節)。

 その例証として、キプロス島生まれのレビ族に属する、使徒たちからバルナバ(「慰めの子」という意味)とあだ名されていたヨセフという人物が、持っていた畑を売ってその代金を教会に献げたとあります(4章36,37節)。この行為がわざわざ聖書に記されているということは、それが信徒の交わりに影響を与えたということです。信者たちの模範とされた出来事でしょう。

 勿論、ヨセフが自分の行為を誇ったというわけではないと思います。ヨセフが使徒たちからバルナバ、すなわち「慰めの子」と呼ばれていたということから、使徒のために様々な心遣いをしていたのだろう、たとえば、迫害などを受けて辛い思いをしていても、バルナバの奉仕によって慰められたというような経験をしたのではないかというような想像を致します。

 まさに私心なく神に仕え、使徒たちに仕え、教会に仕えていたわけです。後にヨセフ=バルナバは、教会によって重く用いられるようになります。

 ヨセフの行為が模範として取り上げられたのを見て、真似をする人がたくさんいたと思いますが、その中に、アナニアとサフィラという夫婦がいました(5章1節)。彼らは土地を売って教会に献げることにしました。けれども、全部献げることを惜しみ、夫婦して代金をごまかし、その一部を持って来たというのです(2節)。一部だったのに、これが全部だと言ったということです。

 一部であったとしても、あるいは、金額はヨセフ=バルナバが献げたよりも多かったかも知れません。だから、一部といわず、全部といって誤魔化そうとしたのではないでしょうか。しかし、ペトロは、その行為を厳しく糾弾しました。アナニアがした行為が、サタンに心を奪われ、聖霊を欺き(3節)、神を欺くものだというのです(4節)。ここに、偽善は神を欺く行為であるという教えが示されています。

 財産を売ってそれを教会に献げるというのは、自発的になされていたことで、そうしなければ救われないというようなものではありません。また、財産を売ることを強要されはしませんでした。財産を処分しても、それを全額献げなければならないというものでもありませんでした(4節)。ですから、正直に土地を売った代金の一部であると言えば、それで十分だったのです。そしてそれは、天の御国に徳を積む行為でしょう。

 それを正直に言わず、全部と偽るところに、人間の愚かさがあります。すべてを献げた人という栄誉を受けようと考えたのです。一部を全部という、文字にすればわずかの違いですが、それが神の御前に裁かれました。神に打たれて息絶えてしまいました(5,10節)。

 このことで、滅ぼし尽くして献げるべきものの一部を盗み取ったアカンに下された罰を思い起こします(ヨシュア記7章1節以下)。アカンは、一枚の上着と銀200シェケル、50シェケルの金の延べ板を盗みました(同21節)。今の価格にして、金は270万円余り、銀は15万6千円余り、上着がどれほどの価値のものかは分かりませんが、それで命を落とさなければならないほどのものとは、およそ考えられません。

 にも拘わらず、神はアカンだけでなく、彼の家族も石で打ち、牛、ろば、羊、天幕など全財産を火で焼きました(25節)。神のものを盗んだということで、徹底的な裁きが下されたのです。実に厳しいものだと思います。
 
 同じ基準が適用されれば、誰も神の御前に生きられる者はいないかも知れません。私が今生きているのは、偽りがないからではなく、神の豊かで深い憐れみであることを知ります。どれほど神の憐れみによって守られてきたことでしょうか。

 けれども、神の憐れみに甘えて、神の御心を悲しませる生活を続けているわけには行きません。神の慈しみと同時に、その厳しさをも考えなければなりません(ローマ書11章22節)。アナニアらが特別なのではなく、私たちも悔い改めなければ、同じ裁きを受けると警告されているわけです。

 信仰によってはばかることなく神に近づき、その御言葉と御霊の導きに与ることの出来る恵みを感謝しましょう。しかし、神は侮られる方ではありません。真の畏れをもって主を礼拝しましょう。

 主よ、御子キリストを送ってくださり、感謝します。今、私たちの生活の中心に、心の王座にお迎えします。いつも私たちを、義の道へ、命の道へ導いてください。神の慈しみの道から逸れて、サタンの誘惑に陥ってしまうことがありませんように。たえず弱い私たちを憐れみ助けてください。 アーメン