「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」 使徒言行録4章13節

 ペトロとヨハネが神殿で民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、宗教指導者たちはいらだち(2節)、二人を捕らえて牢に入れました(3節)。腹が立ったので投獄とは、ずいぶん乱暴な話ですが、彼らは、二人を最高法院の中に立たせ、「何の権威でああいうことをしたのか」と尋問します(7節)。ここで、二人が神を冒涜して処刑された主イエスの名を語るならば、二人も処罰するつもりです。

 それに対して、二人は足の癒された男と共に立ち、「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(10節)と答え、さらに、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(12節)と宣言します。

 つまり、処罰しようと考えている指導者たちの核心をついて、彼らが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられた主イエスの御名の権威が、この男を立たせたのだ。この御名によって、この男を救われた。この御名による以外に、人を救うことの出来るものはないのだと語ったのです。

 宗教指導者たちは、二人の大胆な態度を見、そして、二人が癒した人もその傍らにいて、言い返す言葉がありません(14節)。居並ぶ宗教指導者たちが、二人の無学な普通の人に圧倒されているのです(13節)。それは、二人が大胆に語っている以上に、彼らが語っている主イエスの御名の権威と力が、その場を支配しているからです。

 しかも、その権威と力の具体的な証人として、癒された男がそこに立っているのです(14節)。結局、二人を罪に問うことが出来ず、これ以上、主イエスの名によって誰にも話すなと脅迫するのが関の山でした(17節)。
 
 勿論、脅迫はただの言葉ではありません。無視すれば、次には実力行使が待っています。指導者たちにはその力があります。使徒言行録が著述されていた当時、既にペトロもパウロも殉教しています。教会は、迫害に苦しめられていました。当局者による脅迫は、彼らにとって現実の脅威だったのです。

 けれども、二人は、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と答えて(19,20節)、脅しに屈しない態度を表明しています。二人は、この言葉によって、主イエスを受け入れようとしない宗教指導者たちは、神に従ってはいないと言っているのです。

 かつてペトロは、大祭司の家の中庭で、「この人もイエスと一緒にいました」と言われて、それを三度否定したことがありました(ルカ福音書22章54節以下)。ところが今、大祭司一族の前で、「この人もイエスと一緒にいました」と言われることを喜び、胸を張っています。むしろ、尋問している宗教指導者たちのほうが、腰が引けています。何がペトロをそのように変えたのでしょうか。

 8節に、「ペトロは聖霊に満たされて言った」とあります。ペトロが変わったとか、ペトロに力があるというのではなく、聖霊の力で語ったということが示されているのです。ペンテコステの日に働いた聖霊、使徒たちを大胆に語らせ、聞く者たちの耳を開いて、その真理を悟らせ、悔い改めに導いた聖霊が、ペトロに主イエスを大胆に証しさせているのです。

 さらに脅されて釈放されたペトロたちは(21節)、仲間のところに戻ってことの顛末を報告しました(23節)。そして、皆で神に祈りをささげます(24節以下)。それは、権力者の暴力から守ってくださいとか、権力者たちを退けてください、彼らに報復してくださいという内容ではありません。

 彼らが求めたのは、冒頭の言葉(29節)のとおり、「今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」ということです。イエスの名によって語ってはならないという脅しに逆らって、「思い切って大胆に」と、これまでに勝って思うまま自由に語ることができるように求めたのです。

 そして、彼らが語りたいのは、自分の思いや考えではありません。「御言葉」です。文字通りには「あなたの言葉」(ホ・ロゴス・スー:the word of you)、つまり、主の御言葉です。聖霊の力を受けたキリストの証人として、足の不自由な男を立ち上がらせたキリストの御名をもって、主なる神が語らせてくださるまま思う存分語りたいと祈るのです。

 神はその祈りを聞かれました。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、御名、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」(31節)と記されています。2章1節以下に記されているペンテコステの出来事が再現されたかのような記録です。

 つまり、こういう出来事は一度あればそれで十分というのではなく、繰り返し引き起こされるべきこと、そのために絶えず聖霊の満たしと導きを祈り求めるべきこと、その力を受けて宣教の働きを進めるべきであることを、このように示しているのです。

  私たちも、御言葉を語り伝える伝道の働きに用いられる器となれるよう、心を合わせて聖霊の満たし、導きを祈りましょう。

 主よ、あなたが共におられなければ、聖霊に満たされていなければ、私たちは全く無力です。しかし、あなたはその無力な、無きに等しい者を選び、その傍らに立っておられます。共にいてくださいます。感謝のほかありません。いつも御顔を拝します。絶えず御言葉に耳を傾けます。どうか聖霊によって満たし、主の御業に用いてください。 アーメン