「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』」 使徒言行録3章6節

 ペトロとヨハネが午後3時の祈りのときに神殿に上りました(1節)。信仰深いユダヤ人たちは、一日に三度祈りの時間をもうけ、エルサレム神殿に出向いていたようです。出向けなかったときには、その場所で祈りをささげました(ダニエル書6章11節、9章21節参照)。

 ルカ福音書の最後のところに、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(ルカ福音書24章53節)と記されています。初代のクリスチャンたちにとっても、神殿は主なる神をほめたたえ、祈りをささげる大切な場所でした。そのようにして約束の聖霊が注がれるのを待ち(1章5,8,14節)、そうして、再びおいでになる主イエスを待ち望んだのです(1章11節)。

 かつて、主イエスがエルサレムの神殿から商人たちを追い出されたとき、「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」(ル軽く韻書19章46節)と言われました。誕生したばかりのエルサレム教会の信徒たちは、主イエスが「祈りの家」と呼ばれた神殿で、時を定めて祈りをささげていたわけです。

 「美しい門」、すなわちエルサレム神殿の異邦人の庭から婦人の庭に入る青銅製の美しい門、作者の名をつけてニカノル門と呼ばれることもあるこの門の傍らに、生まれながら足の不自由な男が運ばれてきました(2節)。それは、物乞いをするためでした(3節参照)。礼拝をするためではなかったのです。

 ユダヤ教では、祈りや断食と共に、施しをすることが、神の前に徳を積むこととして奨励されていました。「山上の説教」(マタイ5~7章)の中で主イエスが施しや祈り、断食について教えられているのは(6章1節以下)、そのためです。その施しを当てにして物乞いをするため、神殿に連れられて来ていたのです。

 この男が二人に施しを乞うたとき、二人は、「わたしたちを見なさい」と言います(4節)。何をもらえるのかと期待する男に、冒頭の言葉(6節)のとおり、「金や銀はない」と、その期待を打ち砕きます。ペトロたちが金銀を持っていないということではなく、その男に施す金はないという意味でしょう。

 しかし、話はそれで終わりではありませんでした。続けて「持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)と語られます。そして、男の右手を取って立ち上がらせると、すぐに足がしっかりして、歩き出すことが出来ました(7節)。

 彼はそれまで、「美しい門」の傍らで物乞いするしかありませんでした。動かない足が、彼の生活を縛っていました。そして、その動かない足で物乞いをしながら生活していました。そういう生活が生まれてこのかた40年続いていました(4章22節)。足で立ち上がる日が来るという夢を見ることなど、とうになくなってしまっていたことでしょう。

 しかし今、彼はナザレの人イエス・キリストの名が持つ力を知りました。この後、この出来事を聞きつけて集まって来た民衆にペトロが、「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)と説いています。

 彼は特別な勉強をしたり、難行苦行をしたりしたわけではありません。主イエスについて、どれほどの知識を持っていたか分かりません。ただ、二人に注目し、ペトロの「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という言葉に従っただけです。それだけで、この男は、願い求めた以上のものを受け取りました。即ち、彼は施しを求めたのですが、癒されて立ち上がることが出来たのです。

 彼は、ペトロのように語る者に初めて出会ったのでしょう。そして、彼の内に常識とか人間の知識を超えた導きがあったのでしょう。素直にペトロの言葉に従って立ち上がりました。そして歩き始めたのです。ここに、聴いた言葉に従うことが「信仰」と呼ばれており、「イエスによる信仰」(16節)という言い方で、その信仰も、主イエスによって与えられたものであることを教えています。

 そうして、この男は主イエスの力を実際に味わいました。彼は、主を知る者となったのです。立ち上がり、歩き出した彼の足の向かった先は神殿でした。彼は生まれて初めて、自分の足で神殿に向かいました。何のためでしょうか。自分を癒し、歩かせてくださった神を礼拝するため、賛美をささげるためです(8,9節)。
 
 主イエスは私たちをも、ご自身の御名によって日々歩むように、朝ごとに右の手を取って立ち上がらせようとしておられます。御名をほめ称え、主の御言葉に耳を傾けましょう。聖霊の導きを祈りつつ、聴いたところに従って歩みましょう。

 主よ、この世の荒波にもまれ、心萎えている私たちが、今日も主イエスの御名によって立ち上がることが出来ますように。どうか御言葉をお与えください。聖霊の導きと力に与らせ、おのが十字架を負い、主イエスに従った歩むことが出来ますように。私たちに信仰を与え、その恵みに与らせてくださることを信じて感謝致します。 アーメン