「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。」 使徒言行録2章25節

 冒頭の言葉(25節)は、ペンテコステの日にペトロが語った説教(14~40節)の一部で、詩編16編8節から引用されたものです。

 詩編16編には、「ミクタム、ダビデの詩」という表題がついています。ミクタムというへブライ語の意味は、まだ分かっていません。「金(ケテム)」と関わりがあるとか、「汚す(カータム)」と関連して、「覆う、隠す」という意味ではないかといった解釈を聞いたこともあります。

 70人訳(セプチュアジンタ=ギリシャ語訳旧約聖書)では、「石碑、碑文(ステイログラフィア)」という言葉があてられています。詩を記念として石に刻み、後世に永く伝えるという意味にとればよいのではないかと思われます。

 そして、ダビデの時代から千年という時間を経て、ペトロがこの詩に新しい光を当てました。それは、この詩を書いたダビデは、自分のことを「わたし」と言っているというのではなく、この「わたし」とは、主イエスのことなのだというのです。それが、25節に「ダビデは、イエスについてこう言っています」と記されている意味です。

 ペトロがかく語り得たのは、27節に「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」とあるからです。即ち、その言葉が、キリストが神によって甦らされることを預言しているもので、「わたし」が主イエス、「あなた」が父なる神と解釈されます。

 ペトロは、ダビデは預言者だったので(サムエル記上16章13節、同10章10節参照)、キリストの復活について前もって知ることが出来て、そう記しているのだと30,31節で語り、その預言どおり主イエスは甦られたこと、ペトロたちがその証人であることも告げています(32節)。

 ペトロが、キリストについての預言として引用した冒頭の言葉にもう一度目をとめます。ここで、「わたし」が主イエス、そして「主」とは父なる神のことと考えられます。そうすると、この言葉は、主イエスはいつも父なる神を見ておられ、そして、父なる神が主イエスの右におられるということになります。

 私たちは、ことが順調に運び、自分の思い通りに進むときに、神が私と共にいて、祝福しておられると考え、逆境に出会い、困難が続くと、神はおられるのだろうかと思ってしまいます。しかし、主イエスは「いつも」父なる神を見ておられました。特に、十字架の死を前にしながら、弟子たちに裏切られ、宗教指導者たちによって苦しめられるときにも、主イエスは父なる神を信頼して、揺らぐことがなかったというのです。

 「見る」というのは、「予見する」(プロオラオー)という動詞の未完了中態1人称単数形で、「目の前に置いている、目の前で見ている」という意味になります。現実には苦難と死の壁しか見えないときにも、信仰によってそこに神の御顔を見ているということです。

 永井訳聖書は、「我は常に我が面前に主を透視せり」と訳しています。問題の向こうに、直面している現実の向こうに、主を透かして見るという訳で、なかなか味わい深いものです。

 旧約聖書・詩編16編8節には、「わたしは絶えず主に相対しています」と記されています。「相対している」は、「比較する」(シャーヴァー)という言葉のピエル・完了形1人称単数の動詞が用いられています。ピエル形は、「置く」という意味になります。「自分の前に置く」ということで、新共同訳は「相対する」と意訳したのでしょう。それが、70人訳で「見る」(プロオラオー)と訳されたのです。

 私たちが自分の前に主なる神を置くことなど、出来ることではありません。もし、「絶えず主に相対しています」と言えるとすればそれは、主がわたしの前に常にいてくださったということです。私たちの目に主が見えなくても、主は常にわたしの前におられるというのです。

 それは、すべてのことが神の御手の中で、神の主権のもとでなされていると信じていることでしょう。自分自身にとっては最悪と思われることでも、それが神の御心によってなされていること、それが神のなさる最善のことと信じるということです。

 いつもそう思うことが出来るでしょうか。私には出来ません。逆風に悩まされ、逆境に陥る度に、その都度神の御心を問うでしょう。この杯を取り去りたまえと願い求めることでしょう。それが神の御心であるという信仰に達するまで、祈り続けるでしょう。けれども、もしそれが神の御心であるという信仰が与えられたならば、信じて進むことが出来るように、御心を行う知恵と力を与えてくださいと祈ります。

 いずれにしても、神の導きと助けなしには、自分の力では何もすることが出来ません。何があっても、主の御前に進みましょう。主の御顔を求めて祈りましょう。御声に耳を傾けましょう。

 そのとき、何事にも揺り動かされることのない主イエスが、私たちと共に、私たちの右にいて、私たちを助け導いてくださいます。御言葉を示してくださいます。それは、真理の言葉です。それにより、平安と自由が与えられます。約束通り、主にある喜びに満たしてくださるのです。
 
 主よ、私たちの信仰の目を開き、いつも主の御顔を拝させてください。現実に目が奪われて平安を失ってしまう私たちの右にいつもいてください。不信仰で失意の底にいるとき、義の御手をもって希望の光の内に引き上げてください。私たちの名を呼び、真理の御言葉によって私たちを導いてくださることを感謝します。御旨を弁え、主の御業のために励む者とならせてください。 アーメン