「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」 使徒言行録1章3節

 使徒言行録はルカ福音書と同一人物によって記されました。著述時期は90年代、パレスティナ以外のエーゲ海沿岸地域の教会を背景とした場所であろうと想定されています。

 1節に、「先に第一巻を著して」とあるのは、ルカによる福音書のことを指しています。第一巻は、「敬愛するテオフィロさま」に献呈されていました(ルカ福音書1章3節)。「テオフィロ」とは、神を愛するという意味です。「敬愛する」はローマの高官であることを示す形容詞で、口語訳では「閣下」と訳されていました。

 第二巻である使徒言行録も、「テオフィロさま」に献げられていますが、「閣下」と記されていません。閣下と言われなくてもカッカしない人物であったのかも知れませんが、あるいは、第一巻によって信仰に導かれたので、ルカとの関係が神の家族、主にある兄弟になったために、テオフィロ自身が閣下と呼ばれることを却下したのかも知れません。

 第二巻の書き出しは、冒頭の言葉のとおり、主イエスが甦られて使徒たちに姿を現されたことから始っています。ここに、福音書では見ることの出来なかった二つの事実が明らかになっています。

 一つは、主イエスが40日にわたって姿を現されたことです。ここには「現れる」という動詞の現在分詞形が用いられており、それは文法上、動作が継続していることを示しているので、時々現れたというのではなく、ずっと一緒におられたという表現になっています。

 もう一つは、40日にわたって姿を現されていた主イエスが、「神の国について話された」と記されていることです。「神の国」とは、神が王として支配されているという、その支配のことを指している場合と、神が支配している地域と言いますか、場所を指している場合があると言われます。厳密に二者択一的に考えなければいけないというよりも、いつもその両方の意味を含んでいると考えるほうがよいと思います。

 主イエスは生前、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と神の福音を宣べ伝えられ(マルコ福音書1章15節)、また、たとえ話を用いて「神の国」について度々使徒たちに教えておられました(同4章26節以下、30節以下など)。

 それは、終わりのときに神によって完成される神の国、完全な救いを表していると同時に(同9章47節、10章15節、23節以下、14章25節など)、主イエスの宣教と働きによって既にこの世にもたらされていることを示しています(ルカ福音書11章20節、17章20,21節)。

 主イエスが40日に渡って現れ、神の国について話されたというのは、さながら神がモーセと40日にわたってシナイ山で語り合い、契約のしるしとして十戒を授けられたようなものです(出エジプト記24章18節、34章28節)。

 使徒たちは、復活の主の教えを受け、約束の聖霊が天から降り(2章1節以下)、その力に満たされて大胆に福音を語り始めました(同4節)。それにより、一度に3千人もの人々がクリスチャンになり(同41節)、さらに、救われる人々が日々仲間に加えられましたが(同47節)、それらの人々に使徒たちが教えたのが、神の国の教えだったのです。

 それは、神の国では何が大切なのか、どのような生活をしなければならないのかというような、教義的なことから具体的な生活に至るまでの様々なことが含まれていたことでしょう。彼らは教えられたとおり、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(同42節)というわけです。

 私たちも使徒言行録を通して、神の国の教えを彼らがいかに実践したかを学びながら、神の国の到来を待ち望みつつ、復活の主の証人として神の国の福音を生きるために、聖霊の力に与りたいと思います。弟子たちはそのために一つところに集まり、皆で「心を合わせて熱心に祈って」(14節)いました。彼らに倣い、聖霊を求めて祈り合いましょう。

 主よ、キリストによって罪が贖われ、神の子とされました。「アッバ、父よ」と呼ぶことが許されており、聖霊が、私たちが神の子であることを保証してくださいます。私たちの信仰の目を開いて、さらに深く主を知ることが出来ますように。聖霊の導きに与り、神の国の力、栄光を悟らせてください。聖霊に満たされ、その力を受けて、復活の主の証人としての使命を果たし、主の教会を神の国としてくださいますように。 アーメン