「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』人々はくじを引いて,イエスの服を分け合った。」 ルカによる福音書23章34節

 23章には、受難週の6日目、金曜日の出来事が記されています。最初に、総督ピラトの法廷の様子が描かれ(1~25節)、民衆の声に押されて十字架刑を決定し、引き渡します。「されこうべ」と呼ばれる場所で十字架につけられ(26節以下、33節)、午後3時ごろ(44節)、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(46節)と叫んで息を引き取られ、アリマタヤ出身の議員ヨセフの所有する墓に葬られました(50節以下、53節)。

 冒頭の言葉(34節)は、主イエスが十字架の上で語られた、とても大切な言葉です。ここに、「彼ら」という言葉があります。彼らとは、だれのことでしょうか。直接には、主イエスを十字架につけた人々のことでしょう。彼らは今、くじを引いて主イエスの服を分け合っています(34節)。

 マルコ福音書15章24節によれば、イエスを十字架につけ服を分け合ったのは、ローマの兵士たちでした(マタイ27章35節,ヨハネ19章23節)。ルカの表現では、祭司長たちに動員された民衆が、それを行ったように見えます。ローマ兵であれ、民衆であれ、彼らが主イエスを十字架につけたいと考えたわけではありません。彼らは、祭司長たちに動員され、あるいは、総督ピラトに命じられて、その役割を忠実に果たしているだけです。

 ピラトは、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました(4節)。そして、ユダヤの宗教事情による訴えだと理解して、判断をガリラヤの領主ヘロデに託そうとしました(6節以下)。再度取り調べて、犯罪は見つからないので、鞭で懲らしめて釈放しよう、と提案します(13節以下、15節)。

 無罪なのに鞭打ちの刑というのは、納得のいかない話ですが、ピラトが考える無罪放免と、宗教家たちの訴える死罪との中間を取ったという妥協策でしょう。しかし、無罪の者を鞭打つという妥協を図ったからこそ、十字架につけよという民衆の声に抗し切れなくなります。

 人々は、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と要求します(18節)。バラバについて、マタイ福音書27章16節に、「バラバ・イエスという評判の囚人」と記されています。メシアのイエスではなく、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバというイエスを釈放しろと要求したのです。

 なんとか、主イエスを釈放しようと呼びかけますが(20,22節)、人々の「十字架につけろ」という叫びに(21,23節)、結局、彼らの要求を入れる決定を下し(24節)、バラバを釈放し、イエスは彼らに引き渡してしまったのです(25節)。

 ピラトの態度は問題なしとはされませんが、しかし、主イエスを十字架につけよと訴える声がなければ、主イエスは釈放されたでしょう。イエスをピラトのもとに引き出し、死刑を要求したのは、祭司長や律法学者たちです。その訴えに基づいてピラトが取り調べたけれども、それにあたる事実を見出せなかったというのですから、それこそ、あることないこと訴え出て、何が何でも死刑にしてもらおうと、なりふりかまわず行動しているわけです。

 ところで、「彼ら」が主イエスの祈りの言葉を聴いたら、心が刺されるでしょうか。赦しを祈ってくれていると喜ぶでしょうか。むしろ、犯罪者が何を言っているかと思うことでしょう。ピラトは、あるいはホッとするかもしれませんが、しかし、自分には責任がないと思っていることでしょう。

 そして、祭司長や律法学者たちは、自分たちの宗教的な立場に基づき、主イエスを冒とく罪で訴えているわけで、十字架でそれを罰するのが当然と考えて、赦しを必要としているのは主イエス自身だろうと思うことでしょう。こうして、「彼ら」自身は、主イエスのこの祈りを、自分のための祈りとは考えないと思われます。

 主イエスは、「何をしているのか知らないのです」と祈られました。つまり、悪いことをしたとは思っていないのだから、赦してほしいと祈られているわけです。この祈りは、私たちの常識を超えています。彼らは悪いことをしましたが、悔い改めていますから、赦してやってくださいと仰っているのではないのです。

 考えてみれば、私たちが悪事を働くとき、私は今悪いことをしているという自覚を持ってはいないでしょう。罪が指摘されるとき、「魔が差したのです」というのは、単なる言い訳ではないと思います。勿論、それで罪が軽くなるわけではありません。だから、赦されると言いたいのでもありません。いずれにせよ、主イエスが言われたとおり、まさしく、自分で何をしているのか知らないという状態で罪を犯すのです。

 ですから、主イエスが祈られたこの祈りは、主イエスを実際に十字架につけた人々のためのみならず、今この御言葉を読んでいる私たちのための祈りなのです。今回、そのことを強く思いました。それは、冒頭の「言われた」と訳されているのが、「言う」(レゴー)の未完了形「エレゲン」という言葉だったからです。つまり、繰り返しそう言われていて、完了していないということです。

 主イエスを裏切ったユダ、主イエスを捨てて逃げ出した弟子たち、三度知らないと否んだペトロ、そして、冒涜の罪で極刑を決めたサンヒドリンの議員たち、無責任に主イエスの十字架刑を許可してピラト、刑を執行するローマ兵、嘲笑する群衆などに対して、そのように繰り返し祈っておられたということです。そして、今、この言葉を読んでいる私たちのためにも、そう祈ってくださっているのです。

 この一年を振り返って、どれほど主を悲しませ、そのお心を痛ませたことでしょう。私たちはこの祈りをいつも必要としている罪人であることを自覚し、主の十字架による贖いを感謝しつつ、新しい年も主と共に歩ませていただきましょう。

 主よ、主イエスの執り成しの祈りを感謝します。主イエスの贖いのゆえに感謝します。常に主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾けます。いつも感謝と喜びを心に満たしてください。新しい年を、希望をもって歩み出させてください。主に委ねられた福音宣教の使命を果たすべく、恵みに与ることの出来る喜びを、多くの人々と分かち合うことが出来ますように。 アーメン