「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』。」 ルカによる福音書22章20節

 22章には、最後の晩餐の記事(14~23節)を中心として、初めに「イエスを殺す計略」(1~6節)、食事の後、オリーブ山に赴かれ(30節以下)、弟子のユダに裏切られて捕縛され(47節以下)、大祭司の家に連行されて(54節以下)、最高法院の裁判を受ける(66節以下)という記事が記されています。

 上述のとおり、14節以下の「主の晩餐」という小見出しのつけられた段落に、最後の晩餐の様子が描かれています。共観福音書といわれるマタイ、マルコ、ルカの福音書に、それぞれ、「主の晩餐」が記されていますが、ルカ福音書の「主の晩餐」は、マルコやマタイとは少し違ったプログラムになっています。

 マルコやマタイでは、パンと杯が一回ずつ出てきます。パウロの記した第一コリント書11章でも、パンと杯が一回ずつです。それに対してルカでは、最初に杯があり(17節)、それからパン(19節)、そして杯(20節)と、杯が二度登場します。主の晩餐式の形式も、教会によって様々なバリエーションがあったのかもしれません。ここで、「杯」とは、ぶどうの実から作ったもの(18節)で、ぶどう酒のことです。

 もともと、過越の食事では、第一の杯、苦菜とパン、過越の由来を説明、第二の杯、詩編113,114編の歌、苦菜とパンと小羊の肉、第三の杯、第四の杯、詩編115~118編の歌というプログラムになっています。この過越の食事に最も近い形という意味で、ルカ版主の晩餐式がプロトタイプなのかも知れません。

 冒頭の「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」という言葉(20節)は、ご承知のように、主イエスが語られた言葉です。19節でパンが取り上げられたとき、主イエスは、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」と仰っていました。

 この表現との比較で言えば、「杯」は主イエスの血を象徴するものと考えられているわけですから、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血である」と言われるのが普通ではないでしょうか。あるいは、そう言われていると思い込んでいたかもしれません。

 けれども、聖書では、「わたしの血による新しい契約である」と言われています。つまり、主イエスの血は、私たちと神との間に結ばれる新しい契約のために流されたのだから、杯は主イエスの血を象徴し、そしてそれは、新しい契約のためなのだということを明らかにしようとしたのでしょう。

 この表現は、旧い契約が神とイスラエルの民との間で交わされたとき、モーセが、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」(出エジプト記24章8節)と宣言したのを模したものです。旧い契約のとき、和解の献げ物としてささげられた雄牛の血が用いられました。けれども、新しい契約に用いられたのは、神の独り子キリスト・イエスの血です。神が独り子を犠牲として、和解の契約を結ばれたのです。

 「新しい契約」という言葉を最初に用いたのは、旧約の預言者エレミヤです(エレミヤ書31章31節)。「新しい契約」が締結されるということは、旧い契約が破棄されたということです。同32節に、「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる」と告げられています。

 契約の内容は、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(同33,34節)というものです。

 旧い契約では、十戒をはじめ教えと戒めが石の板に刻まれ(出エジプト記24章12節)、契約の箱に納められました(同25章16節,40章30節)。新しい契約では、それが胸の中に授けられ、心に記されると言われます。主イエスの血によって新しい契約が結ばれると、神の言(ロゴス)なる主イエスご自身が私たちの心のうちに住まわれ、私たちと共にいてくださるのです。

 私たちが、主を私たちの神としたというのではありません。主ご自身が、お前たちの神になってあげようと仰ってくださったのです(ヨハネ福音書15章16節参照)。私たちが主を私たちの神と呼ぶこと、そしてまた、主が私たちの神と呼ばれることを喜んでくださっています。

 わが日本バプテスト静岡キリスト教会では、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(19節)と主イエスが命じられた「主の晩餐式」を、毎月第一日曜日(主の日)の礼拝の中で執り行っています。「主の晩餐」に与るたびに思いを新たにして、主に従い、福音宣教の業に励んでいきたいと思います。

 主よ、私たちと契約を結ぶために独り子をお遣わしくださり、罪の贖いの供え物としてくださったことを感謝します。いつも心に刻まれた主イエスの十字架を仰ぎ、御顔を拝しつつ、歩みたいと思います。絶えず信仰に目覚めさせてください。耳を開いて主イエスの御声を聴くことが出来ますように。 アーメン