「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」 ルカ福音書21章19節

 21章には、宗教指導者たちとの対立に関する記述(20章1節~21章4節)に続いて、神殿崩壊の予告とその前兆を提示する教えなど、終末論的な物語(5~38節)が、マルコに基づいて記されています。

 主イエスが神殿の崩壊を予告されたとき(5,6節)、それを聞いた人々は、いつそれが起こるのか、それが起こる前兆はどのようなものか尋ねました(7節)。何か不安なことがあるとき、早く結果が知りたい、不安を解消するために直ぐにも手を打ちたいと考えます。新型インフルエンザが流行すると言われると、たちまちマスクが売り切れるということも、そのような心理の表れでしょう。

 そこで、偽メシアの出現(8節)、戦争や暴動の噂(9節)、民族、国家の対立(10節)、地震や疫病などの大災害(11節)が、終末の前兆現象として告げられます。

 しかし、それらに先立って教会に対する迫害が起きると語られ(12節)、王や総督たちの迫害が、キリスト者たちにとって、証しの機会となると告げられます(13節)。ここは、当にルカたちが直面していた事態であり、キリスト者たちを励ましたいと考えていた状況でしょう。

 そこに、冒頭の言葉(19節)のとおり、忍耐によって命をかち取りなさいという勧めが語られています。新約聖書中、「忍耐」(フポモネー)という言葉は32回用いられています。そのうち、福音書には2回、いずれもルカが用いています(8章15節、21章19節)。つまり、他の福音書において、主イエスが「忍耐」を口にされることはなかったということです。

 「忍耐」の原語「フポモネー」は、「下に」(フポ)と「留まる、住まう」(モネー)の合成語です。わたしたちは、苦難が押し寄せ、危機が臨むと、慌てふためきます。およそじっとしていることが出来ず、右往左往し始めます。何があっても、そこを動かない、じっとそこにいるということで、「忍耐」の意味をよく表している言葉だと思います。 

 教会の迫害を「証し」、福音宣教の機会と捉え、続けて「忍耐」が語られているのは、迫害の苦難に遭わない努力をすることやそこから逃げ出すことではなく、その場に留まって自分の使命をしっかりと果たすべきであるということが教えられているのです。
 
 1922年、幼児教育専門家、宣教師としてゲルトルード・キュックリッヒがドイツ福音教会から派遣され、フレーベルの愛の保育の精神で日本の子どもたちのために働き始めました。来日一年後の1923年9月1日、関東大震災に見舞われました。地震にあとには火事が起こり、死者、行方不明者は東京だけでも6万人、神奈川、千葉、静岡で亡くなられた方を合わせると、14万人にもなるそうです。
 
 キュックリッヒが働いていた向島の教会は何とか無事で、地震と火事で家を失った人々の避難所になっていました。キュックリッヒは彼らの食事の世話を手伝い、また、放り出されている子どもたちの面倒を見ました。そのとき、ドイツの父親から帰国を促す電報が届きますが、彼女は生涯日本に留まって、日本のために出来るだけのことをしようと決心していました。

 キュックリッヒが8歳の時、母親が世を去りました。父親は牧師として忙しい日々を送っていて、落ち着いた生活が出来ませんでした。彼女は無口になり、沈んだ少女になっていきました。父親は、家庭や子どもたちのことを考えて、新しい奥さんを迎えました。しかし、初めはお互いになじめず、気まずい冷たいものが流れ、しばらく辛く苦しい思いをしました。

 ある日、彼女はヨハネ福音書5章の箇所を読んでいました。7節に、「病人は答えた。『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです』」という言葉があります。これは、38年も病気で弱っている人がイエスさまによって癒されるという話です。

 「わたしを池の中に入れてくれる人がいない」、この言葉が彼女の心に刺さりました。自分は、この不幸な病人を池に入れて上げる人になりたい、病人だけでなく、幼子、赤ん坊、恵まれない子どもたちやこの世で悩み苦しんでいる人々を助けるために働く人になりたい、そう思ったのです。彼女は父親と相談して、ベルリンのペスタロッチ・フレーベル・ハウスに入学し、世界で初めて幼稚園を造ったフレーベルの精神を修得しました。
 
 その後、南ドイツの国立大学付属女子高等師範・幼児専門部に入って勉強しました。卒業して、児童保護施設で働いていたとき、福音教会の世界宣教本部から、ゲルトルード・キュックリッヒを日本に派遣するよう指名して来ました。ある夜、自分は日本に行くべきだという考えが起こり、真剣に神に祈っているうちに、どうしても日本に行くことが自分の使命と感じられ、日本行きを決意したのです。

 大震災の翌年、キュックリッヒは東京・目白に東京保育学院を設立しました。これは現在、東洋英和女学院大学の保育子ども専攻の学部になっています。また、キリスト教保育連盟を造り上げ、生涯この働きに貢献しました。そのお蔭で昭和初期に幼稚園はめざましい発展を遂げました。

 キュックリッヒは、第二次世界大戦中も日本に留まり、幼稚園、教会のために忙しく働きました。欧米の宣教師が退去を余儀なくさせられたり、強制収容所送りにさせられる中、彼女は、同盟国ドイツからの派遣宣教師であったため、働き続けることが出来たわけです。

 けれども、東京空襲ですべてが灰となり、事業は解散状態になりました。この苦難の中でキュックリッヒは、「どんなことになっても、祈る力と、笑う力と、正確な判断力だけは失うことがないようにしてください」と常に祈っていました。神様はこの祈りを聞き届け、どんなに苦しくても、祈りを通して平安を、明るい希望を取り戻すことが出来、また、時に応じて正しい判断をすることが出来ました。
 
 大戦後、埼玉に戦災孤児の施設「愛泉寮」、働く女性のために保育所「愛泉幼児院」を設立しました。その後、県の要請を受けて乳児預かり施設「愛泉乳児園」を開きます。それから、養護老人ホームを造り、施設全体の「愛の泉」理事長に就任します。
 
 誰に対しても、母親のような愛情をもって、わが子に対すると同じように世話をし、面倒を見、信仰に導いていったので、キュックリッヒに影響されて信仰に入り、施設で働こうと決心する人がたくさん出ました。

 また、色々な悩み、難しい問題の相談を受けると、彼らに適切な忠告や暖かい慰めを与えたあとで、「お祈りするとき私たちは、『神様、どうして私ばかりこんなに苦しまなければならないのでしょうか』と文句を言いたい。でもね、その時、神様は何の目的のためにそうなさるのかと尋ね求めることよ。きっと力が与えられます」と、人々を諭していたそうです。

 困難にぶつかるたび、問題に出会うたびに、キュックリッヒはそこに留まり、神の御心を尋ね求める祈りをささげながら、その解決の糸口を見出してきたのです。彼女こそ、忍耐によって命をかち取った人ではないでしょうか。

   「友よ歌おう」というゴスペルフォーク歌集に、「試みはだれにでも」(詞・曲:山内修一)という歌が収録されています。「♪ 1.試みはだれにでも来るもの、真実はそのとき分るのさ。どんなに雨や風が吹いても、太陽はその上で輝く。だから涙を拭いてイェス様に祈ろう、やがて喜びの日が来るだろう ♪」と歌います。

 常に共にいてくださる主イエスに目を留め、その御言葉に耳を傾け、自分の使命を自覚しましょう。そのとき、どんな境遇でも忍耐する力を上から受けることでしょう。  

 主よ、私たちは弱い者です。自分の力で困難に立ち向かい、その下に留まり続けることなど出来るものではありません。どんなときにも祈る力、喜び、感謝する心を与えてください。そして、神の御心を知り、委ねられている責任をしっかりと果たすことが出来ますように。御言葉と聖霊の助け、導きを与えてください。 アーメン